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駅の入り口で街の方を振り返ってみる。白い雲と青い空のコントラストが美しい。だけど弱ったお腹に油ものを入れるように、その景色は私の中の不安をかき混ぜて巻き上げた気がした。
ここでいいという私の言葉を聞き流し、母は改札の入り口までついてきた。
「しっかりね」
「ちゃんと食べて、体に気をつけるのよ」
私を気づかってくれているであろうその言葉も、今はどうにも上手く受け取れない。高校生のときは、子供っぽいなりにもう少し素直に聞けていた気がするのに。
「分かってるよ」
私はぶっきらぼうに返事をして自動改札機に切符を通した。
改札の外で手を振る母の姿から逃げるようにして階段を上がり、新幹線のホームに出た。
少し汚れた白い車両の周りには家族連れが目立ったものの、来るときに比べると人の数は疎らだった。まだ暑いけど、夏が終わりに近づいているのを感じる。
窓際の指定席に座って外を見る。窓ガラス越しの空の色は少し優しい。ホームを歩く人より目線が低いのがなんとなく落ち着かなかった。文庫本を手に持っても開く気すらしなくて、携帯と一緒に手持ちのバッグに突っ込み、足元に置いた。
何もない夏休みだった。
期間は長いのに、充実した感じがしなかった。友達にも会ったけど、急に繋がりが希薄になってしまったようにも感じた。帰省していた1ヶ月弱、大切な時間を無駄に過ごしているような焦りばかりを感じていたと思う。
もっとも、それは大学に入学した4月からのことだった。高校までとは違う人間関係の距離感や、自分の意志で決められる単位の取り方。知らない街に出てきた不安もあった。 周りの学生が急に大人に見えて、自分ひとりが何もしないまま取り残されてしまうのではないか、そんな考えが毎日頭に浮かんだ。
気がつくと、電車は出発していた。もう加速感は無く、私が知っている博多の街も通り過ぎていた。東京まで5時間。ゲームでも持って来ればよかった。そんなことを考えていると、
「そこですごい剣幕で電話してる奴が居た」
前の方の席から男の声が聞こえた。
「スーツの人?」
「ああ。もうちょっと考えて欲しいなあ」
若い夫婦だろうか。まだ車両に人が少ないので会話がよく聞こえた。二人の会話は更に続いていたが、明日からの仕事や天気の話に移っていったので、聞き取ろうとするのはやめた。
天気といえば、台風が来てるんだっけ……。
ちょうど、前方の電光掲示板にそのことが流れていた。紀伊半島に上陸する恐れ……。電車の進行方向だ。九州は晴れていたけど、この先は大丈夫だろうか。そんなことをぼんやりと考えているうちに、彼らの声も聞こえなくなっていた。
***
目が覚めると、ぼんやりとした視界に入ってきたのは濡れた窓ガラスだった。電車が風を切る音に混じって、バラバラと水滴が打ちつける音がする。やっぱり雨が降ってるんだ。今どこだろう。
確かめることはできたけど、それも面倒で、もう一度目を閉じる。頭や肩を心地よい柔らかさが支えてくれていて、いい気持ちだった。新幹線のシートはこんなに寝心地が良かったっけ……。
電車の振動とは別の動きが、そこから伝わってくる。
この感じは……。
ハッとして跳ねるように起きた。シートに座り直してみると、ずいぶん傾いて眠っていたことが分かる。それも窓側じゃなく、隣のシートの方へ……。
「あ、起きちゃった?」
穏やかな声が聞こえた。隣を見ると、20代半ばくらいの女性が座っている。薄い色のカーディガンの肩の部分だけ皺がよっていて、そこに私の頭が乗っていたことは容易に想像できた。
「あ、あのっ、ごめんなさい」
寝ぼけていた頭が急に覚めていく。いったいいつから彼女に寄りかかっていたんだろう。
「ううん。ふふ……」
上品な笑顔に見つめられ、ますます恥ずかしくなった。自分のしていた行為もだけど、目の前の綺麗な女性とは、何もかもが違う自分自身が恥ずかしい。
「あの……私、寄りかかってましたよね?」
「うん」
女性は微笑んだまま、楽しそうに頷いた。
あああ……朝夕の電車でたまに見かける迷惑な居眠り客に、まさか自分がなるなんて。
「起こそうと思ったんだけど、あんまり気持ちよさそうに寝てたから」
気持ちよさそうに……。
確かに昨夜はあまり眠れず、新幹線の中で寝ればいいと思っていたけど……。
「いえ、そんな、ほんとにごめんなさい……」
彼女は可笑しそうに笑って首を振った。ショートカットの髪がさらさらと揺れる。カーディガンの肩の部分を直しながら、手に持っていた文庫本を畳んで置いた。
「ここ、くしゃってなってるよ」
自身の頭の左側に触れながらそう言った。自分の頭の同じ部分を触ってみると、髪が飛び跳ねているようだった。適当に撫で付けてみると、髪が指に絡んできた。
「使う?」
そう言ってバッグから小さい鏡を取り出し、私に手渡してくれた。
「あっ、す、すみません」
鏡を覗くと、左側の髪が熊の耳のようになっていた。髪の毛が乱れるほど、彼女の肩に頭を押し付けていたんだろうか。そう思うとまた恥ずかしさで顔が熱くなる。
大雑把に手櫛をかけて整え、鏡を閉じる。改めてそれを見ると、シンプルだけど使いやすい、ちょうどいい大きさ。なんとなく、目の前の女性のようだと思った。
「髪、綺麗だね」
私が両手で渡した鏡を受け取り、バッグにしまいながらそう言った。
「え、あ、ありがとうございます……っ」
突然そう言われて、返す声が変に上擦った。
でも、綺麗という形容をするなら、目の前の彼女の方がずっとそれらしい容姿をしている。髪型がということじゃなくて、全体の印象が。
「ずっと伸ばしてるの?」
「伸ばしてるというか……」
中学、高校と運動部に入ったことのない私は、髪を短くする理由がなかった。それだけだったので、伸ばしてると言っていいのか分からない。
「そうなんだ。すごく似合うよ」
お世辞なのかもしれないけど、優しい笑顔でそう言ってくれた。
彼女のショートカットの方がずっと似合っている、と言いたかったけど、取って付けたように聞こえそうな気がしてやめた。言われ慣れていそうで、私が言うまでもないような気がした。
そんな話をしていると、次は新大阪に止まりますというアナウンスが流れた。結局、私は1時間以上、彼女を枕に寝てしまったことになる。
***
台風は紀伊半島を反れて、伊勢湾に進んだ。そのため勢力が衰えず、その影響は明日午前中まで続く見込み。新幹線を含む、京都―東京間の交通が軒並み通行止めになり、Uターンの乗客らが大阪や京都で足止めされている。
と、テレビのニュースが言っている。
Uターンの乗客らの一人である私は、京都駅の待合室でテレビを眺めていた。隣には西野さんの荷物がある。新幹線で隣だった女性は西野紗耶さんというそうで、今は仕事の電話をしに行っていた。まだ2週間近く休みがある大学生と違い、社会人は明日からの仕事に影響があるに違いない。
「ごめんねっ」
西野さんが駆けてきた。スリムなジーンズと黒髪に挟まれて、淡い色の上半身が優しい雰囲気を作っている。
「大丈夫でしたか?」
「うん。台風なら仕方ないって」
西野さん以外にも、今夜は同じやりとりが多くの会社と社会人の間でされているんだろう。
彼女は立ったままで、携帯をバッグにしまうと周りを見回した。
「バスも分からなそうだからホテルに泊まろうと思うけど、絵美子ちゃんはどうする?」
バス代行の話が出ていたが、高速道路が通行止めで東京まで行けるかは微妙らしい。急がないのであれば、車内泊になるよりもホテルに泊まれる方が楽だろう。
幸い財布の中身は少し余分があったので、私もそうすることにした。
臨時の窓口の前にはたくさんの人が並んでいた。
列を誘導するために置かれた赤い三角のコーンと、その間に貼られたシャラシャラと音のするテープが、非日常的な雰囲気を作っている。
「結構待ってるね」
西野さんはカート式の荷物を立てて、その上にバッグを置いた。私も自分の大きい荷物をそれにくっ付ける。
「バスとどっちが待ってるんでしょうね」
「どうだろうねぇ」
彼女はきょろきょろと辺りを見回した。代行のバスの受付は近くにはないらしく、列になっているのはここだけだった。
「近くで泊まれるといいね」
すぐに視線を私に戻すと、笑顔でそう言った。
正直、西野さんがいてくれて良かったと思う。私一人だったら、きっとこういうときどうしていいか分からず、実家に電話して泣き言を言っていたかもしれない。
彼女と私は、たぶん5、6歳しか離れていないだろう。それなのに西野さんがすごく大人びて見えて、私はまたも、今の自分が何もできないことに不安になった。
それが表情に出たのかもしれない。
「どうしたの?」
と西野さんが聞いた。
「あ、いえ……」
咄嗟にそう答えたけれど、本音を言えば話したかった。西野さんは、私が悩んでいるようなことを聞いたらなんて言うだろう。
誰でもいいから話を聞いて欲しいという気持ちはなんとなく持ち続けていたけれど、特定の人の意見を聞きたいと思ったのははじめてかもしれない。
「あの、……個人的なことなんですけど」
私がそう言うと、西野さんは一瞬まじめな顔で私を見てから言った。
「うん、いいよ。私が聞いていいことなら」
当たり前だけど、その言葉は嬉しかった。いま思えば、大人の人からこういうふうに言われたことはなかったかもしれない。
「なんか……大学に入ってから、いろいろ考えちゃって……」
だから、そのままずるずると言葉を続けた。
「そっか、どんなこと?」
彼女は少し声の調子を下げた。
相槌を打つようにして先を聞いてくれる言葉に、自分の話し方までもが嫌になる。
「人付き合いのこととか……勉強のこととか……」
どこまで話すべきなのか、少し迷ったけれど、考えていた通りに言ってみることにした。ここ最近、ずっと頭の中でもやもやしていたことを。
それは友達のことだったり、ほかの学生のことだったり、大学のこと、将来のこと……範囲が広すぎて、話している私でさえ言いたいことの中心が見えてこなかった。
豊かとは言えない語彙で、考え込んだりつっかえたりしながらだったけど、彼女は頷きながら聞いてくれた。
「うん、そっか」
ひととおり聞き終わってから、彼女は真剣な表情を少し緩めて言った。何か考えているふうだったけれど、すぐには言葉を続けなかった。
「すみません、会ったばかりでこんな話して……」
沈黙が嫌で、ついそう言った。
言ってしまってから、すごく口先だけの言葉に思えて、自分に対して腹が立った。本当は話したかったし、聞いて欲しかったくせに。謝るような話なら最初からしなければいいし、話した後でこんな事を言うなんて最低だと思った。
それでも、西野さんは落ち着いた調子で言った。
「ううん、あのね、私もそうだったよ」
「え?」
意外な言葉に思わず聞き返してしまう。
「大学3年生くらいまでかな。自分には何もない気がして不安だったの」
「今もなんだけどね」
そう言ってぺろっと舌を出した。
驚いた。西野さんも私と同じような悩みを持っていたんだろうか。私と違う、どう違うのか分からないけど、とにかく私よりも充実した学生生活を送っていたんだというような、そんな勝手なイメージがあった。
「周りがすごく楽しそうに見えて、自分だけ取り残されたみたいで……」
今の私と同じだ。
西野さんでもそんなふうに思っていた時期があったなんて。いま目の前にいる西野さんはいつも落ち着いて大人びていて、きっと自分の力で日々を楽しむ事ができる。そんな人に見える。
だけど、彼女も最初からそうだったわけじゃないんだ。考えてみれば、それはどんな事にも言える、当たり前のことなのかもしれない。
「だけどね、みんな同じなのかなって、だんだん思うようになったの」
その言葉の意味がすぐには掴みきれなくて、私は聞き返した。
「同じ?」
西野さんはうんと言って頷くと言葉を続けた。
「自分と同じような悩みを、みんなが持ってるのかもしれないってことね」
言われてみれば、そうかもしれない。私とまったく違う西野さんが同じ悩みを持っていたのなら、ほかの人が同じことで悩んでいても不思議じゃない。
「でね、2年の終わり頃かな、彼氏ができたの」
「あ……」
咄嗟に思った。西野さんの抱えていた悩みが無くなりはじめたのは、そのときからなんだろうと。というのも私の頭の中にあった”充実した学生生活”には、恋人の存在は欠かせないものとして含まれていたから。
けれど、
「ふふ。そう思うでしょ?でも違うんだ」
「えっ」
西野さんはいたずらっぽくそう言うと、顔の横の髪を耳にかけ、少し恥ずかしそうな顔で続けた。
「私も思ってたの。恋人がいたら、きっと毎日楽しいだろうな、って」
「違ったんですか?」
私はちょっと納得がいかなかった。私の周りの恋人がいる学生は、皆いつも楽しそうに見えたから。
「うーん」
でも、それも私が想像していた”その人達像”に過ぎないのだろうか?西野さんはちょっと困ったように笑って、言葉を探しているみたいだった。
やがて、
「ちょっと例えが良くないかもしれないんだけどね?」
と言って、私が頷くと先を続けた。
「辛いときなんかに、周りの言葉がありがたいなって思うときと、鬱陶しいなって思うときが、私はあるんだけど」
鬱陶しい、という表現に一瞬びっくりしたけれど、私自身もまったく同じだ。むしろ、自分で嫌だなと感じていたような考えを、西野さんも持っていたことに驚いたのかもしれない。
「私のためを思って言ってくれてるって言うのは分かってるんだけどね」
ふと、今朝の母親の言葉を思い出す。最近はうるさく感じることがほとんどだけど、私のために言ってくれているのには違いなかった。それをありがたく受け取れない自分に、朝から嫌になったんだった。
「自分の気分とかで、変わりますよね、感じ方って」
私がぼそりと言うと、西野さんは嬉しそうな顔をした。
「でしょ?そう言おうとしてたの」
列が少し動き、西野さんは荷物を引いて動かした。周りの人たちはそれぞれが自分達の会話に一生懸命だったから、こういう内容の話をするのにはありがたかった。
「でも、恋人の話は……」
西野さんが示した例えが、まだ頭の中でその話と一緒にならないでいた。
「恋人の場合も同じかなって、私は思う」
自分の気分次第ということだろうか。確かに、恋人と一緒にいて楽しめるかどうかというのは自分次第だと思う。経験がないけれど、友達づきあいなんかでもそれは同じだという気がした。
「自分の気持ち次第っていうことですか?」
だけど、それは恋人がいる人の悩みであって、今の自分とは根本的に違う世界の話じゃないかとも思えた。
西野さんは頷いて軽く同意を示したあとで、ちょっと考えるような表情をした。けれどそれ以上そのことについては何も言わなかった。
「ごめん、こんなこと聞くものじゃないと思うけど」
そのかわりに、そう言って一度口を閉じた。
「なんですか?」
私は聞き返した。
これだけ自分の言いたいことを話しておいて、相手から何か聞かれるのが嫌だなんて言えるはずがない。それに、西野さんに何かを聞かれることは決して嫌じゃなかった。
「うん、あのね、絵美子ちゃんは」
少しだけ、声の調子が変わった気がした。何か言いにくいことを言おうとするような調子だった。それはこの場合、西野さんが私の良くない所を指摘しようとしていることを意味していた。
実際には動かなかっただろうけど、自分が思わず身を引いたようにも感じられた。
「あんまり自分に自信が持てない?」
ぞわっと嫌な緊張が背中に走る。その通りだったけど、自分でもあまり言葉にしないように避けてきたことだった。それを西野さんの口から言われると、どうしようもなくみじめな気持ちになった。
「ごめんねこんなこと言って」
少し俯き気味に目をそらした私を見て、西野さんは慌ててそう付け足した。
「いえ……」
私が俯き気味でそう言うと、西野さんは優しく言った。
「そんなことなかったらそれでいいんだし、そうだったとしても全然恥ずかしいことじゃないんだよ?」
その言葉が、気分の悪いときに背中をさすってくれる手のように感じられた。
「自信……ないです……」
だから、その手に嘔吐を促されるように、言葉を吐き出してしまった。いちばん情けない言葉を、いちばん見られたくないかもしれない人の前で。
まるでそれを待っていたようなタイミングで、西野さんは言った。
「うん、私も同じだったよ」
その言葉が嬉しかったのか、自分があんまり情けなかったのか、目に涙が滲んできた。
「今もなんだけどね」
西野さんの手が、そっと後頭部に触れた。私はその手に導かれるように、彼女の肩の上に顔を押し付けた。
「ね、心配しないで」
不思議なもので、立ったままなら押さえられていたはずの涙が止まらなかった。周りの目が気になって声は必死で抑えたものの、涙は無遠慮に西野さんのカーディガンに染みていった。
そのあとで、西野さんが小声で話してくれた。彼女自身が、悩みから抜け出すときに気をつけていたことを。その言葉は、彼女の優しい笑顔と一緒に強く印象に残った。それは自分との――。
順番が来て、西野さんが先に窓口の前に立った。彼女から見れば子供の相談みたいなものに、真剣になってくれたのがとても嬉しかった。
例えもしそれが、する事がない待ち時間の間だからだったとしても。
***
京都市内のホテルに着いたのは22時過ぎだった。
西野さんと私は、部屋に入って荷物を置くと、揃ってベッドに倒れこんだ。前もって話をしていたわけではないのに同じことをしたのが可笑しくて、お互いに笑い合う。
新幹線で会ったときは、まさか同じ部屋に泊まることになるとは思ってもみなかった。お盆を過ぎたといっても繁盛期で、西野さんの順番が回ってきたとき、近場のホテルは1室しか空いていなかったらしい。それ以外だと駅から更に遠くなるという。
西野さんはそれを聞いたとき、真っ先に『一緒でいい?』と私に聞いた。先に自分だけ宿を決めてしまう人でないのは分かっていたけれど、近い方を私に譲り、自分は遠くの宿に泊まるという選択肢もきっとあったと思う。
もちろん明日の事を考えてのことかもしれないけれど、私にはその言葉がとても嬉しく思えた。
順番にシャワーに入り、着替えがなかった私は用意されていた浴衣を着てみた。白地に紺色の模様が付いた、よくありそうな浴衣だ。
「あ、かわいい」
なぜか西野さんに好評で、私は立ったままその場で1回転させられた。ヒールを脱いだ彼女は私より少し背が低く、こういう所の浴衣はたいてい大きいのだと口を膨らませた。
それから荷物を整理して、ベッドに座って話をしていたときだった。
携帯の着信音が鳴った。
聞きなれない音色に、すぐに西野さんのものだと分かる。バッグから携帯を取り出して、一瞬動きが止まる。
「あ、ちょっとごめんね。外で話してくる」
そう言って部屋を出て行った。
仕事の電話だろうか。なんとなく違う気がした。もちろん、西野さんみたいな人なら恋人はきっといるだろう。でも、今さっきの表情が、なんとなく気になった。
部屋に残されると、知らない場所に一人でいることが急に寂しく思えてきた。テレビをつけてみたけど面白くなくて、本を読む気にもなれなかった。
午前0時が近づいても、西野さんは戻ってこなかった。
さすがに心配になって様子を見に行くと、階段の踊り場のところでまだ電話をしていた。声は聞こえなかったけれど、上半身のポーズでそうだと分かる。私は会話を聞かないように慌てて部屋に戻った。
0時を過ぎて、今日の疲れが溜まっていた私はあくびが止まらなくなってきた。
西野さんには悪いけど、先に寝よう。部屋の鍵は開けたまま、ベッドルームの明かりを消して、私はシーツに潜り込んだ。
***
目が覚める。
一瞬、ここがどこだか分からない。すぐに昨日のことを思い出す。隣でベッドの軋む音と、シーツの擦れる音がした。西野さんが戻ってきて横になったらしい。
そっとベッドボードについた時計を見ると1時半だった。声をかけようか迷ったけれど、電話のことに触れるべきではないような気がしてやめた。
さっきまで聞こえていた表通りの車の音は少なくなり、代わりに近くを流れているらしい川の音が耳に入ってくる。それくらい静かだった。だから聞こえてしまった。西野さんの泣く声が。
シーツに口を押し付けているんだろう。はっきりした声ではなかったけれど、ときどきこもったような嗚咽が漏れて聞こえた。続けて鼻をすする音も。
どうすればいいか分からなかった。原因がさっきの電話にあるのは間違いないと思う。たぶん恋人だろう。だめになってしまったのかもしれない。できることなら慰める言葉をかけたい。年下の私が何を言ったところで、きっと大した励ましにはならないと分かっているけど……。
どうしよう。起き上がろうとして両手に力を入れるけれど、そこから先を躊躇してしまう。勇気がない。もし迷惑がられたら……。そう、私じゃきっと役に立たない。
役に立たないけど……。
でも……私はそうしたかった。
「……西野さん」
両手に力を入れて起き上がり、声をかける。泣き声がぴたりと止まった。
「ごめんなさい、声かけるか迷ったんですけど……」
西野さんは動かない。
「……なにかいやな事が、あったんですか?」
いやなことはあったに決まってる。それを聞くのじゃなくて慰めの言葉をかけたいのだから、何かもう少し上手い言い方があるのだろうと思う。それが言えない自分が情けなかった。
「……ごめん。なんでもないの」
彼女はシーツの中に潜ったままでそう言った。予想していた答えのうちの1つだった。
同じ部屋に泊まっても、知り合ったばかりなのに変わりはない。プライベートな話を聞かせる間柄じゃないことくらい分かっていた。私はベッドから降りて、テーブルの上の財布を掴む。
「……どこ行くの?」
スリッパの足音がドアの方へ向かうのが分かったんだろう。シーツの中から西野さんが泣きそうな声で言った。
「飲み物買ってきます」
自動販売機はフロアの中央にあった。エレベーターの前がちょっとしたロビー風になっていて、ベンチや植物が置かれている。
そこにあったのは、私が普段買わないメーカーのものだった。私は1階のロビーまで降りた。少し時間をかけたかった。受付の男性が、チラリとこちらを見て、すぐに手元に視線を戻す。
ロビーを見回すと、奥の方に自動販売機が並んでいた。近くまで行くと、私の好きなお茶がある。千円札を入れて、そのボタンを押す。ガコンと落ちてきたペットボトルを取り出した。続けて隣の、甘い紅茶のボタンを押した。
部屋に戻ると明かりがついていて、西野さんはベッドの上に座っていた。私が入っていくと、改めて袖口で顔を擦り、脚を揃え直した。
「飲みますか、これ」
「……ありがとう」
そう言ったものの、受け取りに来ようとはしなかった。そんな気分じゃないんだろうな、と思う。
テーブルの上に置こうか迷ったけど、一応渡してみたかった。
「どっちがいいですか?」
そう言ってベッドの上に並べると、彼女は赤い目のままで少し微笑んで、甘い方のペットボトルを手に取った。キャップを開けて、琥珀色の液体を少し飲み込んだ。
やけに青白く見える唇は、メイクを落としたからだけではないような気がした。それだけではなく、寝巻き姿で座った西野さんは、女の自分から見ても驚くほどに細くて頼りなげだった。
そうして、しばらくペットボトルを手の中に抱いたまま黙っていた彼女は、
「……振られちゃった」
と、ぽつんと言った。その視線は床の方に向けられている。
そうか、さっきの電話は、やっぱり……。
私はなんと言えばいいのか分からなかった。もう片方のペットボトルを手に持ったまま、ベッドとテーブルの間に突っ立っていた。
「浮気してるのは知ってたの、少し前から」
西野さんは下を向いたまま、ぽつぽつと話し続けた。私は黙って聞いていた。止め忘れていたエアコンが、思い出したように空気を吐き出し始める。いまはそれくらいの雑音があったほうが落ち着いた。
「別れよう、きっと傷つく事になるからって思ってたの」
その声は弱弱しくて、昼間の彼女と同じ人物だとは思えないくらいだった。紅茶のペットボトルをベッドに押し付けるように握りしめている、その手の甲は白くなって、細い筋が浮き上がっている。
「でも……もしかしたら、私の勘違いかも……って」
言いながら、西野さんの目に涙が溢れてきた。両手で擦っても止まらない。次から次へ溢れてくる涙を隠すように、ベッドの上に突っ伏した。
「ごめんなさ……っ ……こんなの……見せて……っ」
泣きながら私に謝り、ベッドに顔を擦り付ける。
やっぱり聞くべきでなかったのかもしれない。ますます彼女を悲しませてしまったのかもしれない。
でも、自分でしようと思った事だ。最後まで責任を持たなくちゃ……。
私はその場でスリッパを脱ぎ捨てて、西野さんのベッドに上がった。漏れてくる泣き声は止まらない。震えている背中にそっと触れる。その小ささに驚く。
ゆっくりと背中を撫でた。なんの役に立つのか分からないけれど、他にできる事が思い浮かばなかった。彼女は泣き続けていた。
「う……っ え、ぇぇ……っ」
顔の周りにシーツを寄せ集めるように引っ張る。シーツと髪が音を立てて擦れた。
できることがあったら言って欲しかった。でも、まだ他人という距離にあるはずの私達の関係に、それを求めるのは無理だろう。
昼間の西野さんは、泣いている私を優しく抱いて、落ち着かせてくれた。そして私に勇気もくれた。いまの私には何もできない。自分の非力さが嫌だけど、西野さんもきっと昔はそうだったんだ。
いつか私もなりたい……。西野さんみたいな人に、少しでも頼られる人間に……。
10分くらい、そうして泣き続けた後だった。
「っん…、……ごめんね」
西野さんが顔を上げた。泣き声は小さくなっている。くしゃくしゃになっているパジャマの袖で顔を擦り、濡れたままの目が私を見た。視線が合った瞬間、ドキリと体が強張った。まるでそこに電流が流れたかのように、私には感じられた。
「あの……」
「はいっ」
彼女はそれだけ言うと目を逸らしてしまった。言いにくい事だろうか。私もさっき泣いてしまったから、その後の恥ずかしさだったら分かる気がしたけど、西野さんの思いがそんな単純なことかどうかは分からない。
「何かしましょうか?」
私がそういうと、小さく首を振る。少しだけ開いた唇が、何か言いたそうに震えていた。
私は彼女の言葉を待った。
「……抱きついてもいい?」
えっ、という言葉が、喉まで出かかった気がする。出てしまわなくて良かった。引かれたと思われたくない。そんなことなかったから。
ただびっくりした。私にそれを求めてくれたことに。
「はいっ」
「どうぞ」
腕を少し広げて待ち構えてみる。やってみるとかなり恥ずかしい。
西野さんは恐る恐るといった感じで、ゆっくりと私の胴に手を回してきた。細いあごが、控えめに肩に乗せられる。
不思議と安心できた。すすり上げるような泣き声はまだ聞こえるものの、さっきまでのようなハラハラした感じを、私自身は感じなくなっていた。
5分か、10分か、長くはない時間が過ぎた。
抱き合ったままで、西野さんが言った。
「……ダメな女って、思ってる?」
そんなの、正確に言えば分からない。
私が西野さんについて知っているのは、たかだか半日一緒に過ごした範囲でしかない。その上私は西野さんよりずっと子供で、一緒に過ごしても分からないこともあると思う。
でも、京都駅でした話を思い出す。
彼女も大学時代、同じような不安を抱えていたと言っていた。そして今、失恋して泣いている。綺麗で大人びて見えた西野さんが、今はとても小さく弱く感じられる。
「思ってません」
私は失恋の辛さを知らないけれど、彼女が分別のある大人だという思いは変わらない。でも、同時に持ってるんだと思う。私と同じくらい、弱くて不安を抱えた自分を、きっと西野さんも。
「ぜんぜん……」
「……。」
恋人とのことは、前から悩んでいたんだろう。だけど私の前ではそんな素振りは見せなかった。悩みがなくなるわけじゃないから、隠していたんだろう。自分の弱い部分を。それがさっきの電話で、きっと一時的に溢れてしまったんだ。もしも私が明日の朝まで眠っていたら気がつかなかっただろう。
弱さを必死で隠して隠して、それでもたまに隠し切れなくなってしまう。それがダメな女だとは、私は思えない。
「どっちかというと」
「……え?」
私は恥ずかしさを隠すように、彼女のショートカットに鼻先を突っ込んだ。
それで、
「……いい女だと思います」
生意気なのを覚悟の上で、思ったことをそのままに言った。こんなに言い難い事を言ってしまう気になったのは何故なんだろう。そしてそれを実行できたのはどうしてだろう。
「もう……どこが」
西野さんが一際強く、私の体を抱きしめてくる。私も負けないくらいに、力いっぱい抱きしめ返す。浴衣とパジャマを通して、体温と体のやわらかさを感じる。
「……ありがと」
その一言は、今までに聞いたどんなお礼の言葉より嬉しくて、私は思わずもらい泣きしそうになったのだった。
***
翌朝、起きたら西野さんはいなかった。
どこかに行ってるのかと思ったけれど、荷物がない。先に出発してしまったらしい。無理もない、時計を見ると時刻は10時を過ぎていた。仕事は大丈夫とは言っていたけれど、休みになったとは言っていなかった。きっと今頃新幹線の中だろう。
昨夜買ったペットボトルのお茶をラッパ飲みしながら窓の外を見る。快晴だ。盆地状に京都を囲む、遠くの山々までが綺麗に見える。台風は夜のうちに通り過ぎたらしい。
テーブルを見ると、紙袋に入ってスコーンが置いてあった。西野さんが気を利かせて買っておいてくれたんだろう。その下に、手帳を破り取ったようなメモが挟まれていた。
『仕事があるので先に行きます。スコーン良かったら食べてね』
『昨日は本当にありがとう』
彼女をそのまま写したような、丁寧で読みやすい字。
スコーンをかじりながら、何度も読み返してしまう。
あれ……。
よく見ると、このメモは下側が破り取られている。
横に穴が並んでいるから、手帳のようなものから切り取ったのは間違いない。だけど、それなら下部を切り取る必要はない。紙が大きすぎたか、下側だけ使われたページだったのか……?
「まあいいや」
スコーンを食べながら、着替えて荷物を整理する。もともと帰る途中だったのだから、タオルと洗面道具くらいしか出していない。それらを旅行カバンに詰め込んでチャックを閉じて、鏡の前で大雑把に髪を梳かした。
ふと、肘の辺りに垂れ下がった毛先を一房つまんで見てみた。なんの特徴もない黒い髪。これを綺麗と言っていいものなのか分からなかったけれど、いつもより、何故か少しだけ愛着が持てた。
メールアドレスくらい、交換すればよかった……。
もちろん、私達はたまたま半日一緒に過ごしただけで、また会って何かするような関係ではなかっただろう。メールをやりとりするような共通の話題があるとも思えない。
でも……。
こんな事を言ったら、西野さんには怒られるかもしれないけれど……。
楽しかったな、と思う。
年上で綺麗だけど、弱くて可愛いところも見せてくれた、彼女と過ごせた一晩が。
セミの鳴き声が飛び込んでくる窓から、青い空と、京都の街の半分が見下ろせた。この風景を、きっとしばらくは、ひょっとするとずっと忘れないかもしれない。何の縁もない場所だったのに、一人の人と過ごしただけで、特別に見える。それがとっても不思議に思えた。
私は昨日までより、少しだけ楽しい気分になって部屋を出た。
この夏一番の思い出をくれた、この部屋にありがとうと挨拶を残して。
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