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 見ざる聞かざる言わざる。

 人生を生きるための知恵と言われるけれど、聞かざる、は難しい。目と口は閉じられるけれど、耳は閉じられないからだ。

「ハハハ……。でさ……」

 授業中、クラスの後ろの方の席から聞こえてくるヒソヒソ話。怖いもの見たさと同じ原理なのか、私の脳はそれを聞き取ることに集中する。

「そう、んでさ……」

「橋本だろ……マジ……」

 そして律儀に自分の苗字を聞き取り、その意味を解析し、私に傷つけと命令する。そのたび私は傷つく。背中を刃物で切られているみたい。針金で胸の中を突き回されているみたい。暑いような寒いような、怖いような情けないような、そんな気持ちがぐるぐると回る。授業なんてこれっぽっちも聞こえない。

 それほど大きな声でないためか、注意する教師は少ない。もししても、またすぐに再開されるだろう。いつからこうだったのか、思い出せない。なぜ私なのか、考えても分からない。彼ら彼女らから見て、何かが気に入らないのだろう。

 生き地獄とも思えるような時間を、黒板を走るチョークの音と、周りの生徒が知らぬフリでノートに書き付ける音だけを聞いて過ごす。およそ、私の高校2年目はそうやって過ぎた。

 学校を休みはしなかったけれど、遅刻が続いた。その時間も次第に遅くなり、1時間目をサボるようになり、そうなれば2時間目も。といった具合で、今日も家を出てから書店や百貨店をうろつき、時刻は12時前だった。

「君、ちょっといいかな」

 男性の声がかけられ、何かと思って振り向くと警察官が立っていた。

「いま授業中だよね?何してるの?」

「いえ、これから行くところですけど」

 私が答えると、2人の警官が顔を見合わせる。何をやりとりしているのか分からないけれど、気分が悪い。

「本当に?学校に確認していいかな?」

 何を確認するのだろう。私が遅刻しているかどうかをだろうか。バカバカしい。私の行動は咎められ、その原因を作っている彼らの行動は誰からも咎められない。

 学校の前までやってきても、中に入る気がしなかった。いっそやめられればいいのにと、敷地を支えるブロック塀の周りを歩きながら思う。でも、それからどうするの?大学は?就職は?結婚は?

 やめる、とセットで必ず頭に浮かぶ難問の数々。私はこの先、どうやって生きていくんだろう。俯いたまま歩いていると、後ろからエンジン音が聞こえてきた。大きさからオートバイのようだった。

 いちおう、動物の本能として音の出所を確認する。まさかとは思うけれど、白バイが追いかけてきたのかとも思った。思ったとおり、けれど白バイではなく、普通の中型のバイクだった。徐行しながら私の横を通り過ぎていく。しかしその運転手――つまりライダー――は私の目と興味を惹きつけた。

 目の前でバイクは止まり、片足を地面についた少女がこちらを振り返った。ヘルメットを脱がなくても少女だと分かるのは、胸が大きいからでも髪が長いからでもない。彼女は制服を着ていたからだ。私が身に着けている物と、まったく同じ制服を。

 糊の効いたミニスカートがシートの上に辛うじて広がり、つまりその下は、黒いシートに下着が直に触れているのだろうか。そんな下品な想像をしてしまうのは、目の前の少女とバイクの組み合わせが、あまりに非日常的に見えたからだ。

「ね、いまから教室行くの?」

 少女はフルフェイスのヘルメットの風防を開けるとそう話しかけてきた。気軽な感じではあったけれど、気安い感じではなかった。それが私を安心させた。

「えっと、分かんないです」

 なんとなく先輩であるような気がして敬語を使う。すると少女はにっこり笑い、

「ふふ、サボり?」

 と聞いてきた。こんなふうに笑いかけられたのはどれくらい振りだろう。

「あんまり行く気がしなくて」

 私が答えると、彼女は片足で器用にスタンドを立ててバイクを降りた。そしてヘルメットを脱ぐ。私は目が点になった。なぜって、かわいかったからだ。彼女が。

 内側に向かって強めに巻かれた黒髪と、薄っすらとポイントを押さえて施されたメイク。そして上品な笑顔とが相まって、とても高校生とは思えない魅力をたたえていた。

「そっか」

 顔が熱くなり、思わず目をそらしてしまう。

「私も今日サボりなんだけど……」

 そう言いながら、彼女は上半身を伸ばして私の顔を追いかけるように覗き込む。

「わっ」

 反射的に身体を引くと、彼女は面白そうに笑った。

「ねえ遊びに行かない?」

 学食行かない、とでも言うような自然さでそう言った。私はなんと言えばいいのか分からず、驚きの連続で働かなくなっている頭をフル稼働させた。

「名前、なんていうの? あたしはアカネ」

「橋本……です」

 それを聞いた彼女はちょっと口を尖らせて、下のお名前は?と聞いた。

「可南子です」

「可南子ちゃんか。ね、行こう?」

 アカネさんに連れられてやってきたのはカラオケだった。平日の昼間に外で遊ぶのもまずいから、と彼女は言っていた。さっきみたいに、警察官にありもしないことを詮索されるのは嫌だった。

「よく来るんですか?」

 私が聞くと、アカネさんはたまにね、と答えてから言った。

「敬語じゃなくていいよ、同じ学年だし」

「えっ」

 一瞬信じられなかった。目の前の大人びた女性と、自分が同い年だということが。いや、というより。

「どうして知ってるんですか?」

 彼女と私は初対面のはず。確立で考えれば、同学年でない可能性のほうが高い。

「教えて欲しい?」

 いたずらっぽい笑みをたたえて私を見る。私が頷くと、彼女はピピっとリモコンのボタンを押した。マイクを手に取るとこう言った。

「タメ口で話してくれたら教えてあげる」

 スピーカーからそんな言葉が流れた。

 アカネさんが歌っているのは、少し古い歌謡曲。画面の文字を追いかける彼女の顔が、間奏に入ってこっちを向いた。目が合うと、彼女は少し恥ずかしそうに笑って、また画面の方に向き直った。

 それを見て、ようやく彼女も同じ高校2年生なんだと思えた。普通の日本人なら、初対面の人の前で歌を歌うのは恥ずかしい。

「昔の歌が、好きなの?」

 そう尋ねると、彼女は笑った。まだどこか少し、恥ずかしそうな表情を残したままで。

「可南子ちゃんも入れなよ」

 そう言ってリモコンを手渡される。

 実は、この瞬間を恐れていた。

「私、カラオケ来たことなくて」

 今どき珍しいかもしれない。冴えない中高生活を送ってきた証だと思われるのかもしれない。遊び慣れたアカネさんには信じられないかもしれない。

「そっか、じゃあ一緒に歌お」

 けれどそんな心配をよそに、彼女はリモコンを突っつきはじめた。コレ知ってる?コレは?と言いながら、某アイドルグループの曲を入力してしまった。

「ええ、絶対無理」

「大丈夫、歌ってみると気持ちいいよ」

 前奏が終わってアカネさんが歌い始める。その目がチラリチラリと私を見てくる。恐る恐る、マイクに向かって声を出す。アカネさんの楽しげな声に混じり、スピーカーから自分の声が小さく聞こえる。彼女は目で笑い、整った親指を上に向けた。

 素敵だな、と思う。見た目もきれいで笑顔もかわいくて、おしゃべりも上手で気遣いができて。大人でも、なかなかこんな人は見かけない。

「なーに考えてるの」

 俯いた顔を、アカネさんの顔が下から覗くように見上げてくる。

「あ、アカネさんて、もてるんだろうなと思って」

 あああ、もっと違う表現をしたかった。しゃべり慣れていない私の口は、頭が考えるのと微妙にずれた言い方をしてしまう。

 それを聞いたアカネさんは、

「またぁ」

 と言って私の頬に触れた。

「どの顔がそんな事言うの」

 指の腹でフニフニと、私の頬を押す。意味が分からず、されるままになっている私に、彼女は続けて言った。

「可南子がその気になれば、彼氏の10人や20人すぐできるよ」

 そ、そんなにいらない。と言うか無理だ。お世辞だ。社交辞令だ。

「嘘だと思ってるでしょ」

 アカネさんはそう言って、指を離した。

「だ、だって」

「そうそう」

 彼女はそう言って私の言葉を遮った。

「なんで同学年だって知ってるか、だけど」

 そうだった。

 アカネさんはそこでいったん言葉を切ると、反応を確かめるように私の顔をじっと見た。その顔は笑っていたけれど。

「あたし、可南子のこと知ってたんだもん」

 カラオケから出る前に、アカネさんからジャージのズボンを渡された。

「穿いて」と言われ、わけが分からず言われた通りにすると、彼女も同じようにズボンを穿いた。

 それがバイクで送ってくれる際、寒くないようにだということに気づいたのは、ズボンを返し忘れたことに気付いたのと同時であった。

***

 アカネさんとの出会いは衝撃的だった。

 けれども、それで私の毎日が変わるわけではない。相変わらず遅刻が多く、休みがち。両親にバれるのも時間の問題だろうと思えた。

 休日に家の電話が鳴るたび、学校からではないかとびくびくしていた。曜日を問わず、私の心は休まるときと場所を持てなかった。

 だから祝日の月曜日の昼、机の上の携帯が鳴ったときも、私は心臓が冷たくなるのを感じた。液晶に映っているのは知らない番号。おそるおそる着信ボタンを押した。

「……はい」

「あ、もしもし」

 女の子の声だった。同い年くらいだろう。声を聞いても誰だか分からず、まったく心当たりがない。

「橋本さんだよね?」

「私、クラス委員の鈴木です」

 電話の相手はそう言った。クラス委員。鈴木。そんな人がいたような、いなかったような。

「進路希望のプリントを渡すように先生に言われてるんだけど、今日渡しに行ってもいいかな」

 鈴木と名乗った相手はムダ話をせず、すぐに用件を述べた。進路希望のプリントか。朝のHRあたりで配られて、受け取っていなかったんだろう。

「あ、……ごめんね、わざわざ」

「いいの。どこに行けばいい?」

 鈴木さんは抑揚のない声でそう言った。

「私の家……は分からないよね」

「家に行っていいの?」

 質問の意味が分からなかった。知っているならそれが楽ではあるけれど、さすがにそれは悪いと思えた。

「鈴木さんの家は……どの辺り?」

「○○駅のそば」

 駅名を聞いて、学校を頂点に、すごくつぶれた二等辺三角形を思い浮かべる。

「えっと、じゃあ△△駅でいい?」

 底辺の中間辺りと思える駅名を挙げてみる。

「分かった。1時間後でいい」

「うん、ありがとう」

 △△駅は私鉄同士の乗換駅で、駅前には鉄道会社のスーパーやファーストフード、レンタルビデオ店、ファミレスやコンビニがひととおり揃っている。

 鈴木さんの顔は分かるけれど、私服だとどうだろうか。そういえば彼女は、どうして私の携帯番号を知っていたのだろうか。

「橋本さん」

 考えていると、後ろから声をかけられた。

 立っていたのは、なぜか制服姿の鈴木さんだった。これなら見間違えようがない。真面目なスカートの丈に、上品な眼鏡、後ろで1つに結んだ黒髪。真面目な委員長のステレオタイプのような人だった。

「あ、ごめんね休みなのに……」

 彼女は首を振ると、鞄からクリアファイルに挟んだプリントを取り出した。

「今週の金曜までだから」

 お礼を言って受け取ると、二人の間にはそれ以上交わす言葉がないように思えた。じゃあ、と別れの言葉を切り出そうとしたときだ

「提出に来れそう?」

 鈴木さんが聞いてきた。それは、私のクラスでの状況を考えての言葉だろう。

「ん、なるべく行くよ」

 行くとは言い切れないし、鈴木さんの手前、行けないとも言えない。最悪、担任宛に郵送すればいい。そう考えていると、また鈴木さんが口を開いた。

「橋本さん、もう決まってるの?」

 進路の話だろうか。この段階での進路調査は、進学、就職といった大まかな内容でしかない。したがってほとんどの生徒が進学と書いて提出するだけだ。

「……今回のは」

 今後、どうすればいいのかはまるで分からないけれど。

「そしたら、今書いてくれたら提出しておくけど」

 鈴木さんはそう言った。

「え、でも悪いよ」

「全然」

 彼女は短く答えた。書いて渡して欲しい、その方が私も楽だから。そう言っているのだろう。

「えっと、じゃ……」

 私は鞄の中に筆記用具を探した。けれど鈴木さんは、

「ここじゃ書きにくいから、あそこで」

 と言って、ファーストフード店を指差した。

 意外だった。それは2つの点で。

 ひとつは、鈴木さんがファーストフードを利用するということ。いわゆる品行方正のお手本のような彼女が、ああいうところで買い食いをしているのは想像できない。

 もうひとつは、こんな気遣いをしてくれること。プリントの升目に、名前と出席番号、そして進学という字を丸で囲むだけの作業だ。外で立ったまま書いたって1分で終わるし、読めないほど汚い字になることもないだろう。

 もっともそのどちらでもなく、彼女からしてみれば、立って提出物の記入を行うなんて、考えられないのかもしれない。

 飲み物だけ頼んで2階の席に座り、鈴木さんは私の前にプリントとボールペンを並べて置いた。

「あ、ありがと……」

 ほんの少し笑みを浮かべると、彼女は紅茶の入ったカップを両手で包むように持ち上げた。

 2年3組。28番。橋本可南子。進学。担任氏名。……!?

 担任の先生の名前?

 知らない。いや、もちろん苗字は知ってるけれど、フルネームで、しかも漢字で書かなければいけない。

「鈴木さん、ごめん」

 窓の外を眺めていた顔が、私の方を向いた。

「担任の先生の名前って、分かる……?」

 くす、という表現がぴったりな笑いを、鈴木さんが漏らす。少しだけ肩の緊張が取れた気がした。

 彼女は私からボールペンを受け取ると、レシートの裏に書いてくれる。少し前傾姿勢になり、自然と彼女の顔が近づく。

「はい」

 そう言ってレシートを180度回し、ボールペンを横に添えた。

 きれいな字だった。丁寧で読みやすい。その字を横に見ながら、プリントの升目を埋めていく。

 お礼を言いながら彼女にプリントを手渡した。鈴木さんはそれをクリアファイルに挟むと、カバンの中へ丁寧にしまった。

「それじゃ」

 と言うと、自分のトレイを持って席を立った。

「あっ」

 私が慌てて出ようとすると、

「ゆっくり出て」

 と言い残し、そのまま出て行った。私はまだ、コートを着ていなかったのだ。

***

 学年末テストまで1か月ほど、高校2年も残りあと2か月となった。

 もうすぐ受験生になると言う緊張からか、授業中の私語は減っていた。ときどき耳障りなヒソヒソ話が聞こえてはきたけれど、できるだけ聞かないようにした。

 そんなある日、英語の教師が急病で休み、その時間が自習となった。課題用のプリントが配られ、各々がそれに取り組み始めた。

 私は自習の時間が嫌いだった。教師がいないことで、生徒は悪ふざけの羽目を外しやすく、それを咎める人間もいないからだ。そしていま、悪ふざけが起こればそれは私に向けられる可能性が高かった。

 そこまで分かっていながら、どうして私は教室に残ったのだろう。自習と分かった時点で、すぐにその場を立ち去ればよかったのだ。

 いつもの後ろの方の席の数人がしゃべり始める。はじめは小さな声だったが、周りが何も言わないと分かるとすぐに声が大きくなっていった。

 彼ら彼女らがなにを話しているのかに関わらず、そのヘラヘラとした声を聞いているだけで、私は背筋が冷たくなり、顔は熱くなった。脇の下に変な汗が染みてくる。勉強などできるはずもなかった。トイレに行くフリをして、そっと外へ出ればいい。カバンなんか持たなくていい。ここから出なければ。

 けれど私は縛られたように動けなかった。あのおしゃべりを聞いただけで、身体がすくんでしまうのだ。情けない。それならせめて寝ていよう。机に突っ伏していれば、少しは安心できる。声が聞こえてきても、聞こえないフリができる。

 けれど、それもできない。私の身体が動かせない。まるで操られているみたいに、耳をすませて、自分を傷つける言葉を聞けと命じられたみたいに。私は逃げられなかった。

 そして私を傷つける儀式が始まった。トイレから戻ってきた1人の男子が、私の横を通るときにちょっとからかっていったのだ。たったそれだけで、そのグループの興味は私に向けられた。

 人間は共食いをしないって、そんなことはない。人は身体は食べないけど、心は食べる。そのターゲットに私を選んだのだ。彼らの食欲を満たすため、私の心は端から少しずつ食べられてしまうのだ。怖い。逃げたい。でも逃げられない。動けない。

 1人の男子が黒板に下手くそな似顔絵を書き、額縁の下のタイトルのように、HASIMOTO、とローマ字で書いた。似てる。Hが抜けてる。もっとかわいく描いてやれよ。かわいそうだろ。彼らは彼女らは笑っている。何が面白いのか分からない。どうしてこういうことができるのか、理解できない。ニヤニヤした顔は悪魔のようだった。冷たい粘液に包まれながら、火で焼かれているような気分だった。生きている心地がしなかった。

 周りの生徒達は知らぬフリでプリントに取り組む。当然だ。私が逆の立場だったらきっとそうする。むしろごめんなさい。うるさくしてごめん。わたしのせいで集中できなくてごめんなさい。

 死にたい。もういやだ。私なんか……

 そのとき、笑い声が止んだ。おしゃべりの声も消えた。

 委員長が、黒板消しで落書きを消していた。

「おいおい、なに消してんだよ」

 1人の女子がまくし立てた。

「解答と連絡事項を書きます」

 一瞥もせずにそう言うと、手に持ったプリントの中身を黒板に写していく。1−(what)、2−(which)、3−(having)4……。

 委員長が板書する音だけが教室に響いた。隣のクラスの授業の声が小さく聞こえる。私は泣きそうになりながら、鈴木さんの後姿を見つめた。教壇の上で背伸びをして、なるべく高い位置に書いていく。我慢しても、涙がこぼれるのを止められなかった。

 勢いを削がれ、それきり彼らは黙ったままだった。

『採点した上で、クラス委員がまとめて提出。

 13:50まで。以降は受け付けません』

 時間前に、私は鈴木さんの席へ行き、プリントを出した。お礼を言いたかったがとても言えず、付箋に書いて彼女の机に貼った。それを見て、彼女は小さく笑ってくれた。

 私は鈴木さんに救われた。それはあの場にいた、誰もが感じただろう。そしてそれは、鈴木さんが邪魔をした、ということになる。彼らから見れば。

 まず、からかいのターゲットに彼女が加えられたことは間違いなかった。後ろの黒板の隅に、あの下手くそな絵が描いてある。その下にはSUZUKI、と書かれている。

 鈴木さんはポーカーフェイスで心情が読めない上に、大人なのだろう。そういうものはさっさと消し、悪口陰口にはまったく反応しなかった。そのため、彼らの行動はより直接的な嫌がらせへと移った。靴や体操服を隠す。ゴミ箱に捨てる。机に落書きする。教科書を破る。正気を持った人間の行動とは思えなかった。動物よりも、はるかに性質が悪かった。

 彼女のために、なにかしたい。平気な素振りをしていても、こたえないはずはない。中学からこういうことを体験してきた私には分かる。むしろ、泣き喚いたりする方がストレスは発散されるし、周りの助けも借りやすい。鈴木さんは強いけれど、その強さが彼女を傷つけかねない。

 とは言え、私に何ができるだろう。学校で面と向かって話をするのは難しい。私は相変わらずクラスで1人浮いていて、話しかけた相手に迷惑をかける存在だ。

 ある日、本棚に置きっぱなしだった携帯が目に入った。はっとして手に取り、着信履歴を探す。すぐに、アドレスに登録していない電話番号が見つかった。これがたぶん、鈴木さんの携帯番号だ。

 発信ボタンの上に指を乗せる。時刻は20時過ぎ。まだ構わないはずだ。だけど、そうか。

 制服の隣に吊るしてあったダッフルコートを掴み、部屋着の上に羽織った。家で話したい内容ではなかった。居間にいた母親にコンビニに行くと嘘をつき、近所の公園に向かった。団地に囲まれた公園は明るいけれど、ツツジのような低木の茂みは真っ暗な闇だった。そして何より寒い。震える指で携帯を取り出した。さっきのままの画面に指を添える。

 愛と勇気。愛ってなに?私がそれを感じられる日は来るのだろうか。でも、いまは勇気だけでいい。私にください。深く深呼吸をすると、ボタンを押し込んだ。

プルルルル

プルルルル

 落ち着かない気分で呼び出し音を聞かされる。5回,6回と繰り返され、少しほっとしつつも残念な気持ちになりかけたとき、

「……はい」

 で、出た!

「あ、もしもしあの……鈴木さん?」

「そうだけど」

 相変わらずの平坦な調子の声。こんな時間に電話をして迷惑だっただろうか。

「あ、あの、いまちょっと大丈夫?」

 時間じゃなくて、私が電話をするのが迷惑だろうか。

「大丈夫。なに」

「えっと……あの」

 急かすような鈴木さんの口調に、言葉が上手く出てこない。

「いま外にいるの?」

 言葉を探していると、鈴木さんが言った。

「う、うん」

 私の呼吸は寒さで震えていた。それが伝わってしまったのだろう。

「学校の話?」

「……うん」

 鈴木さんの呼吸は聞こえない。家の中だろうか、物音もしない。

「私のこと心配してくれてるなら、大丈夫だから」

 なんてことだろう。わたしはうん、とあの、しか言ってないのに。

「で、でも……私のせいで……ほんとにごめん」

「橋本さんのせいじゃない」

 早口に、私を遮るようにそう言った。

「ご、ごめん」

「謝らないで」

 そう言われてしまい、私は返す言葉がなかった。ごめん以外に言える言葉がないなんて、なんて卑屈な人間なのだろう。

「ああいうことする人が嫌いなの。許せない」

 抑揚のない口調だったけど、強い意志を感じずにはいられない。同い年、同じ学校に通う同じ少女が、どうしてこんなに強くいられるのか分からなかった。

「あの、鈴木さんは強いし、余計なお世話かもしれないけど……」

 彼女は黙っていた。

「もし、私が何か力になれることがあったら……」

 言って。尻すぼみになりながらもそう伝えると、しばらく間が空いてから、ありがとう、と彼女は答えた。

「そのときは、電話するね」

***

 明日からいよいよ学年末試験。内申点に影響するため、特に推薦枠で大学入学を狙う人には大切らしい。バス停までの道を、もやもやした頭を支えながら歩く。学校のそばのバス停を避け、違う系統のバスに乗るのが常だった。こんなはみ出し者で、私はどうするんだろう。どこの大学に行けばいいんだろう。そこで何をすれば……。誰と……。

「かーなこっ!」

 そんなことを考えながら歩いていたら、後ろから声をかけられた。

「アカネさん……!」

 いつかと同じ、制服姿でバイクに跨った彼女がいた。私の横で止まるとスタンドを立て、バイクから降りた。

「ふふ、今日もかわいい顔しちゃって」

 そんなことを言ってヘルメットをとった。

「な、なに言って……」

 顔をそらしても、上半身を伸ばして私の顔を覗き込む。この間と同じ、顔を覆うように巻かれた髪の毛にナチュラルメイク。彼女はもしかして目が悪いのだろうか。そんなことさえ考えてしまう。

「アカネさんは、今日学校は……」

「ん、行ってきたよ」

 学校での彼女は、どんなふうなんだろう。アカネさんみたいな人だったら、きっと毎日が楽しいんだろうな。そばにいるだけでこっちまで楽しくなれるのだから。

「可南子は?テストの準備した?」

 いかにも遊んでますといった外見のアカネさんが、そういう発言をするのが面白かった。

「んー……」

 勉強などあまりできていなかった。もちろんアカネさんは私の事情を知らないし、私だって言うつもりなんかない。

 彼女は私の反応を見て楽しそうに笑うと、

「ね、試験終わったらまた遊ぼーよ」

 と言った。

 嬉しい。そう言ってもらえるのを待ってたんだと思う。けれどそのときふと、鈴木さんのことが頭に浮かぶ。

「あの、友達を……誘ってみてもいいですか」

 するとアカネさんは急に怖い顔になった。びっくりして何か言おうとしたら、ぶすっと言った。

「可南子。けーご」

「え?」

 一瞬なんと言われたのか分からずぽかんとしていると、彼女は私の頬を両手で引っ張った。

「敬語は禁止だってば」

「あいたたた」

 そうだ。そうだった。アカネさんと話しているととても同い年には見えなくて、ついつい敬語になってしまうことがある。

「ごめんなひゃいぃ…あはねふぁん……」

「まったくもー」

 アカネさんはそう言いながら私の頬を離し、手で撫でてくれる。

「じゃあさ、最終日の放課後に正門で待ち合わせでいーい?」

 そう言ってヘルメットをかぶると、バイクのキーに手を添えた。

「う、うん、分かった」

「楽しみー。お友達にもよろしくね」

 そう言うと、手を振ってからバイクに跨りエンジンをかけ、坂道の頂上の向こうに見えなくなった。

 試験の出来は、いいとは言えなかった。勉強はしたけれど、自分でも集中できていないのは分かっていた。最後の科目が終わり、教室の空気が緩む。私はそっと鈴木さんの席へ行き、廊下へ誘った。

「なに?」

 彼女はいつもの調子で聞いた。

「あ、えっとね。 この後って時間、ある?」

「あるけど」

 鈴木さんの返事は短く明快なので、いつも私は言葉に詰まってしまう。次の言葉を考えるスピードが、鈴木さんのテンポに追いつかないからだ。

「あの、もしよかったら、一緒に遊ばない? もう1人女の子が一緒なんだけど……」

 昨日から考えておいたセリフを、なぞるように口にする。

「いいけど」

 特に悩んだ様子もなく、彼女は頭を縦に動かした。

 待ち合わせは正門。これはよかった。

 多くの生徒は東側にある門から出入りし、正門を利用する生徒は少ない。門のところで人を待つというのは慣れていない私でも、あまりそわそわせずにいられた。

 だけど、鈴木さんと一緒にいると緊張する。まだあまり彼女を知らないし、彼女が私をどう思っているのかも分からなかった。

「テスト、できた?」

 何か話さなければと思い、そう聞いてみた。

「普通かな。橋本さんは?」

 彼女はそう返してきた。鈴木さんの普通。きっと私の普通よりずっと基準が高いのだろうなと思いつつ、

「私はあんまり……」

 と答えた。思っていたよりも、軽い感じの言い方になってしまい後悔する。どうしてこんなに、口が勝手に脚色を加えるのだろう。けれど鈴木さんは薄っすらと笑って、

「そっか」

 と言っただけだった。それで話は終わってしまい、下校する生徒達の声が遠くに聞こえるだけ。何か彼女に話しかけられるきっかけはないか、そう思っていたときだ

「あ」

 鈴木さんが気がついたように声を上げ、カバンを開けて中を見た。ノートや教科書の奥に、落ち着いた色のマフラーが見えた。彼女はしばらく中を探してから、

「借りた本忘れた。取ってくる」

 と言って昇降口の方へ走っていった。

 鈴木さんの言葉で、学校に図書室なんてものがあったことを思い出す。私は家とクラス、それに移動教室の間を行き来するだけで、自主的に校舎内を動き回ることはなかった。寒い布団の中に入ったとき、なるべく身体を伸ばしたくないのに似ていた。

 そんな私とは違い、みんな試験が終わってのんびりしたいのだろう。ここに立って東門の方を眺めていても、帰っていく生徒がいつもより少ない。あそこを歩いていく一人一人が、それぞれ人格を持って生きている。そんな当たり前のことが頭に浮かび、だけどそれが私を不安にさせる。

 あの人たちと私は違う。きっと違う。あの人たちの1人と、私の1人は、身体の大きさや重さは同じだけれど、価値が違う。動物や自動販売機は私にも同じように接してくれるけれど、人間はそうしてはくれない。生徒はもちろん、先生も、たぶん親も、私のことを迷惑だと思ってる。きっと私のことを……。

ブブブブブ

 そのとき、鞄の中で携帯が震えて、私の思考は断ち切られた。液晶を見ると、公衆電話と表示されている。

「……もしもし」

 おそるおそる電話に出ると、

「あ、可南子?」

 アカネさんだった。公衆電話ということは校外からだろうか。

「ごめん、いま昇降口の電話からなんだけど、急に親に帰ってこいって言われちゃってさ」

 今どき、昇降口にある古びた公衆電話を使う人がいたのか。そこからかけられた電話はは私をがっかりさせた。

「あ、そっか……。じゃあまた今度」

「うん、ほんとにゴメン」

 私は気にしないでと言って電話を切った。家の都合なら仕方ない。それよりも、鈴木さんにはなんと言おうか。彼女が戻ってくるまでに考えようと思っていたのに、その時間はなかった。

「ごめん、おまたせ」

 鈴木さんが戻ってきて私の横に立つ。

「……おかえり」

 笑ってそう言おうとしたけれど、上手く笑えなかった気がする。

「どうかした?」

 その証拠に、彼女はそんなふうに返してきた。

「あ、えっと、うん」

 ちっとも考えがまとまらないまま、私はアカネさんからの電話の内容を伝えた。誘っておいてごめんと謝ると、

「そう」

 特に驚くでもなく、残念がるでもなく、彼女は頷いた。

「それで、えっと、どうしようか? 2人で遊ぶ……?」

 さすがに、アカネさんが来ないからじゃあさようならというわけにはいかない。とは言え、鈴木さんと2人で間が持つのだろうか。それが何より心配だった。

 けれど鈴木さんはさも当然のように、

「お昼食べよ」

 と言ってきた。

「あの、えっと、私……」

 私とでいいのだろうか。そう聞きたいのだけれど、スマートな表現を探そうとして結局何も言えない。私の悪い癖だった。

「まだお腹すいてない?」

 それに比べて、シンプルだけど言いたいことをそのまま言う鈴木さんの言葉は分かりやすい。取り繕った感じがしなくて、むしろ好感が持てた。

***

 一緒にご飯を食べてから、私と鈴木さんは以前より親しくなった。食事を共にするというのは大切なことなんだ、と改めて思う。よくいるタイプの委員長でしかなかった私の中の鈴木さん像に他のことが加えられた。映画が好きなこと。1人っ子であること。数学が苦手であること。外食はけっこう利用するらしいこと。どれも些細なことではあったけれど、それが鈴木さんという人を知ることができる知識なら、他のどんなものにも代えられない気がした。

 学年末テストの後の1週間は自由登校期間だった。教師による授業はなく、課題用のプリントが配布される。提出の義務もない。1時間に1度ほど、交代で教師が見回りに来るほかはのんびりした空気だった。こういう雰囲気でなら、勉強も出来るんだけどな、と思う。大学はこういうふうだろうか。

 いつもの悪口グループは1人も来ていない。だから私は、安心してプリントに取り組むことが出来た。

 その週の終わり、放課後になると鈴木さんが私の席へ来て言った。

「橋本さん、明日ひま?」

 私は自分の席で、いや教室の中で話をするのが苦手だった。どうしても人目が気になってしまうのだ。

「あ、うん」

 鈴木さんはそれを察したのか、「帰りながら話そ」と言って自分の席からカバンを持ち上げた。

「映画見に行かない」

 歩き始めてすぐ、彼女はそう言った。断る理由はなかった。

「でも私あんまり詳しくないけど……」

 鈴木さんは映画が好きだと言っていたから、それが心配だった。

「いいの。橋本さんと遊びたいだけだから」

 彼女は斜め前を見ながらそう言った。その言葉がとても嬉しくて、その後何度も思い出してしまったことは誰にも言えない。

 翌日の日曜日。12時にターミナル駅の外で待ち合わせをした。少し春めいてきたせいか、改札口からたくさんの人が吐き出されてくる。

 そういえば、完全にプライベートで鈴木さんに会うのは初めてだった。最初会ったときはプリントを受け取りに、その次は試験が終わってからそのままだったから、どちらも学校生活の延長だった。

「おまたせ」

 後ろから声をかけられて振り返ると、私服姿の鈴木さんが立っていた。柔らかそうなダッフルコートにジーンズという、私と同じような格好だ。

「なんか格好が似てるね」

 私がそう言うと、彼女はふふ、と笑った。いつもより少しだけ柔らかい笑顔に目を奪われる。

「行こ」

 映画館は、歩いて5分ほどの建物の中にあった。

「お昼食べた?」

 ビルの前で鈴木さんが聞いた。昼は食べていなかったけれど、朝を少し遅めに食べてきた。そう答えると、

「じゃあ終わってからでいいね」

 と言って笑った。なんだろう、学校にいる鈴木さんと違う。なんだかとってもきれいに見える。とってもかわいく見える。

 もちろん、3学期は鈴木さんにとって楽しいどころか辛いばかりだったはずだ。……私のせいで。だから学校にいるより外にいるときの方が楽しそうに見えるのは当然なんだけど。

「……この2つ?」

 上映されているのは、ホラー物と恋愛物の2つだった。私はどちらも苦手だった。恋愛物はヒロインと比べて自分がみじめになる。ホラー物は安心できる現実世界があって初めて楽しめるのであって、いまの私には憂鬱なだけだった。

 なのに鈴木さんは

「こっちにする?」

 と言ってホラー映画のポスターを指差した。

「私、すごい苦手で……」

「じゃあこっち?」

 と言ってロマンス映画のポスターを指されても、

「そっちも苦手そうで……」

 としか言えない。鈴木さんは少し悩んだ後で、

「じゃあこっちにしよ」

 と言ってホラー映画の上演時間を確認した。ちょうどすぐだったらしく、窓口に並ぶ列は疎らで、すぐに私たちの順番になった。鈴木さんはさっさと2枚買ってしまい、

「怖かったら抱きついてもいいから」

 と冗談なのか本気なのか分からないことを言われ、チケットを手渡された。

 映画は怖かった。

 抱きついてもいいよと言われていなくても、彼女にしがみつかずに過ごすことは出来なかったに違いない。鈴木さんの二の腕辺りに顔を押し付けて、横目でチラチラとスクリーンを見ていた。

 だけど、怖いときにしがみつける相手がいるって、すごく幸せだ。ひょっとして、世の中の女性がホラーを好きなのは、怖いものを見ることで自分の隣にいる人の大切さを再認識できるからなんだろうか、などと考える。

「怖かったね、思ってたより」

 映画館が終わったあとで、鈴木さんがそう言った。

「だから言ったのに」

 私にいたっては、怖さの程度を判断できるほど見ていなかった。目を瞑っていた時間の方が長かっただろう。

「怖がりなんだね、橋本さん」

 鈴木さんが笑みを浮かべて言う。

「そうだよ、だから……」

 鈴木さんの手が伸びてきて、私の視界の上へ消えた。それから頭に小さな重さを感じた。彼女の手だった。

「ごめんね」

 そう言って、少しだけ手を動かした。同じくらいの身長の鈴木さんに頭を撫でられていると思うと恥ずかしかったけれど、不思議と安心できた。

 近くのファミレスで遅い昼食をとり、周りが混みだしてきた16時頃、鈴木さんは席を立った。

「そろそろ行こうか」

 あまりたくさん話をしたわけじゃないけれど、とても落ち着いた時間だった。もう少し一緒にいたい気もしたけれど、晩ご飯なんかの時間を考えれば、そろそろというタイミングではあった。

 会計を済ませ、外に出たところで鈴木さんが私を振り返って言った。

「あのね」

 その口調が少し改まった感じだったので、私は黙って次の言葉を待った。鈴木さんにしては珍しいくらい、間が空いた。

「私、4月から転校するの」

「えっ」

 頭を殴られたような衝撃、とはこういうことを言うのだろう。一瞬、聞き間違えただろうかと思った。そうであって欲しかった。

「転校?」

 けれど鈴木さんは、私の言葉にはっきりと頷いた。楽しかった気分は消え去り、私は次の言葉を継げなかった。

 学校でのことが原因だろうか。

「お父さんの会社が今度合併するんだって」

 そのため転勤になる人が一気に増えるらしい。鈴木さんの両親は同じ会社に勤めていて、単身赴任よりは家族で同じところへというのが両親の希望だったらしいと、彼女は言った。

「ごめん、言うのが遅くなって」

 そんな。もう鈴木さんには会えないのだろうか。

「もう、戻ってはこないの?」

 声が震えそうなのが、自分でも分かった。

「たぶん……」

 彼女はまた、小さく頭を動かした。

 合併後の企業がスムーズに動き出すまでは、転勤先にとどまることになると、両親は告げられたらしい。5年か10年か、そういう単位での話なのだそうだ。

「あ…っ?」

 鈴木さんにもう会えない。そう考えたら、いや、それだけでもう何も考えられなくなった。気がついたら、手の甲に水が落ちてきて、それが自分の涙だと気付くのに一瞬の間があった。

「ご、ごめ……」

 涙を拭おうとしてあげた手首が、鈴木さんに掴まれる。彼女はそのまま私に抱きついた。

「せっかく仲良くなれたのに」

 押し殺したような鈴木さんの声が耳に注がれる。いつもの抑揚のない声ではなくて、はっきりと感情が読み取れる声色だった。

「私も、そう思ったら……悲しくて……」

 涙が止まらない。人と別れることがこんなに悲しく感じられたことはなかった。頬を伝って流れた涙が、鈴木さんのコートに染みていく。私たちはしばらくの間、人目も忘れて抱き合ったままだった。

 身体を離すと、鈴木さんは濡れた目をこすって言った。

「見せたいものがあるの」

 そう言って、駅とは反対方向へ歩き出した。ゲームセンター、飲食店、不動産屋。それらを通り過ぎるにつれて人と建物の密度が低くなってくる。どこに行くつもりなのだろう。少し不安になったとき、鈴木さんは足を止めた。

 そこは駐車場だった。そして自動販売機。それから……。いずれにしても、彼女が見せたいものがそこにあるとは思えなかった。けれど鈴木さんは、駐車場の端のほうへ歩いていく。私は小走りに追いかける。

「これ」

 鈴木さんが立ち止まったのは、バイクの前だった。よくあるタイプの中型バイクだ。これが何だというのだろう。

「分かる……?」

 彼女の目が私を見る。

「え、どういうこと?」

 分からなかった。彼女が何を尋ねているのかが分からない。彼女はカバンの中から財布を取り出すと、カードを1枚引き抜いた。私はそれを受け取って目を通す。

「保険証……?」

 健康保険証だ。私も持っている。

「名前のところ見て」

 そう言われて名前を見る。そういえば、彼女の下の名前を覚えていなかった。そこに印字された名前は、

 鈴木茜

 すずき あか……ね……

「あかね……って読むの?」

 偶然だろうか。私はその名前を知っている。

「そうだよ」

 鈴木さんが困ったような顔で笑う。

「アカネさんと、同じ名前だ……」

 そう、同じ名前だ。それは間違いない。今日遊ぼうとしてた人だよ、と告げるべきだろうか。

「同じ名前じゃないよ」

 けれど鈴木さんは言った。少し駄々をこねるように。少し悲しそうに、はっきりと、こう言ったのだ。

「同じ人だよ」

 その時の私の気持ちを、なんと言い表せばいいのか分からない。

「え、う、うそ……」

 信じられない。だけどそんな嘘をつく理由は考えられないし、意味もない。鈴木さんはしばらく黙っていた。私もなんと言えばいいのか分からない。

「ジャージ、持ってきた?」

 言われて気がついた。アカネさんから借りっぱなしのジャージのズボン。それを返さなければいけないんだった。鈴木さんが引っ越すのなら、なおさら……

「あ、忘れちゃ…た……」

 そして、もっと大事なことに気がついた。そう、それを知っているのは私とアカネさん以外には、いないのだ。

 鈴木さんはカバンから銀色のキーを取り出すと、ハンドルのロックを外してエンジンをかけた。間違いない、これは鈴木さんのバイクなのだ。言われてみれば、アカネさんのバイクに似ている気もする。

「もう少しだけ、時間平気?」

 私が頷くと、彼女はシートの下にカバンを突っ込んでヘルメットをかぶり、バイクに跨った。

「乗って」

 そう言ってヘルメットを手渡される。

「う、うん」

 自分のカバンもしまいこみ、後ろのシートに跨る。アカネさんに乗せてもらったことがあったから、要領は覚えていた。低いエンジン音を響かせて駐車場を出ると、バイクは滑るように走り出した。

 20分ほど走って、鈴木さんは先ほどと似たような駐車場にバイクを止めた。少し先に高いビルがあった。

「あそこに上ろ」

 鈴木さんはそのビルを指差した。

 最上階に近いフロアは展望台だった。フロアの中心に飲食スペースがあり、その周りを360度歩けるようになっている。

 休日だけど半端な時間のせいか、人はそこまで多くない。

「夜だったらデートみたいだったんだけどね」

 鈴木さんはそう言って笑った。いまのセリフはなんか、アカネさん寄りだった。笑顔はやっぱり控えめで、鈴木さんのものだったけれど。

「鈴木さとアカネさんが同じ人だったなんて」

「ほんとにびっくりした」

 私がそう言うと、彼女は少し困ったように笑った。

「ごめん、最後まで気づかれないとは思わなかったんだ」

 そう言われてハッとした。いちばん親しくしてもらっている人のことを、私はその人と気づかず、別の人だと思っていたのだ。

「ご、ごめん、いま気づいたけどすごい失礼なことして……」

「ううん、メイクと髪形が変わると分からないからね」

 自分でもさ、と鈴木さんは続けた。

「メイクして髪巻いたあとで自分の顔見ると、誰これ、って思うもん」

 その言い方がおかしくて笑ってしまう。鈴木さんは本来、おしゃべりが上手な人なんだなと思う。

「でも、いまはアカネの話は」

 そうだ、いまはそんなことより……。

 鈴木さんが……。

「私のことだけ考えて」

 冗談とも思えない口ぶりで、鈴木さんが言った。

「う、うん」

 西に傾いた太陽が、彼女の顔をオレンジ色に照らす。逆光を受けて茶色く透ける前髪が、とてもきれいだった。

「私さ」

 遠くを見ていた目が私に向けられる。黒い瞳に見つめられて、顔が熱くなる。

「たぶんこっちの大学受けると思う」

 その言葉で、私は実感した。

 彼女はもうすぐいなくなってしまう。鈴木さんとアカネさん。私の高校生活で、いちばんの宝物。そう思うと、視界が滲んできた。

 だめだ、また……

「ごめ……っ」

 彼女は何も言わず、そのまま私を抱きしめた。その肩に顔を押し付けて私は泣いた。感情が抑え切れなくて、涙はどんどん溢れ、声を漏らして泣いた。鈴木さんの手が、私の頭を撫でた。けれどその手は震えていて、気がつけば鈴木さんの肩も震えていた。

「可南子……」

「う……うぅ……っ」

 唇が震える。声が出ないかもしれない。

「あ…ぁ…」

「あ…かね……っ」

 わななく唇では、それだけしか言えなかった。私は泣きに泣いた。周りの人たちにはさぞ迷惑だっただろう。物心ついてからの記憶の中で、あんなに泣いたことはなかった。あんなに悲しいこともなかった。

 大学を受けると言った鈴木さんは、最後に

「そしたら、また会お」

 と言って、私の手を握った。私は力いっぱいに、その手を握り返した。それがお別れの挨拶になった。

 年度がかわり、私は3年生になった。少しだけ不安だったクラス替えも、穏やかな人が多そうなクラスでほっとした。3年生は希望する進学先によって、大きく文系と理系に分かれていた。そのため授業の1/3くらいは教室移動があり、クラスそのものの意味が軽くなったことも嬉しかった。

 私は大学を受験することに決めた。そしてもうひとつ、やりたいことがあった。

「免許?」

 母は洗い物をしながら、怪訝そうな声を出した。

「なにに使うの?学校へ行くのは禁止でしょ?」

「違うよ、普通の中型のバイクの免許」

 バイクの免許を取ってみたいと思ったのは、鈴木さんの影響だった。だけどもちろん、免許を取ってバイクに乗れても、彼女のようになれるとは思わない。ただ、気持ちよさそうだったのだ。

「危ないからやめなさい。必要ないでしょう」

 母はそう言った。また娘が面倒なことを言い出した。そういう気持ちが声色に表れていた。母が考えていることはたいてい、どうすれば娘が余計なことをしたがらないか、ということだ。そして『余計なこと』であるかどうかは母の頭の中だけで決められていた。

 私がなおも食い下がると、決まり文句の「お父さんに言いなさい」で話を終わらせてしまった。

 子供心にも、娘がバイクの免許を取りたいと言い出したら親がどう思うか、想像は難しくはない。危ないことはもちろん、あまり良いイメージを持たれる乗り物ではなく、まして受験生となればなおさらだ。案の定、父はそれを聞いてきた。

「いま取る必要があるのか?」

 必要か、という聞かれ方をされると、子供が望むほとんどのことは必要ない部類に入る。だから私はこの質問が嫌いだった。

「バイクを買うのは大学生になってからでもいいの」

「だったら免許も大学生になってから取ればいいじゃないか」

 父の言うことはたいてい筋が通っていて、正論だ。だから何も言い返せなくなってしまう。

「いいでしょ、受験生だからって1日中勉強してるわけじゃないんだし……」

「だからいま取らなければいけない里由はなんだ」

 私はものごとを論理的に述べるのは苦手だった。だからいつも、父にこういう言い方をされればあきらめるしかなかった。

 4月はあっという間に過ぎた。お花見なんて行かないし、部活に入っていなければ新入生も関係ない。バイクの話はそれ以来、親にはしていなかった。

 5月からは、週に数回予備校に通うことになった。予備校へ行くように言い出したのは母だったけど、自分でも行った方がいいだろうと思った。いつまた学校に、行きにくくなってしまうか分からないから。

 予備校はさすがに私語が少なく、それを注意する講師も多い。私にとって、勉強だけに頭を使えばいい環境は心地よかった。公立の学校しか見たことがなかった私にとって、試験に受かるための勉強をする、という場は新鮮だった。周りの生徒の会話にも、大学の名前がよく挙がる。自分も彼らと同じ受験生なんだと思え、なんとなく気が引き締まる気がした。

 ある日、6時間目の授業が早く終わり、いつもより早く予備校へ着いた。授業までは時間があるから自習室へ行こうと思って廊下歩いていると、声が聞こえてきた。

「ねえ、どこの大学行きたいか決まった?」

 女子の声がそう言った。進行方向にある廊下の曲がり角からそれは聞こえ、私は咄嗟に歩幅を縮めてしまった。

「だから、お前と同じところ」

 男子の声がそれに答える。その口調が、2人の関係を鈍感な私にだって把握させる。

「A大受けるの?ホントかなあ」

 聞いていていい話ではないし、それ以上に聞いていたい話ではない。私は少しずつ歩幅を戻すように努めた。

「ほんとだって。応援してくれないの?」

 それきり、声は聞こえなくなった。私は角を曲がって自習室へ急ぐ。2人の生徒がくっついて、何をしているのかなんて見たくない。女子生徒の制服が、有名な進学女子校のものであることも。その背中に添えられた男子生徒の大きな手も。ゼロ距離まで近づいた二人の顔も。でも歩きながらじゃ、耳も目も閉じられないんだ。

 ……人間って不便だな。

 不便なのは、私なのかもしれない。私はひょっとして、自分の身体の説明書を読まずに、どこかへ置き忘れてきたのかもしれない。ご飯を食べ、トイレに行き、お風呂に入り、布団で寝る。そんな最低限の行動はできるけれど、あんまりにも心が弱かった。カップルを見かけることくらい、どこでだってある。それを居心地のいいはずの予備校で見てしまったことが、どうしてこんなにショックなんだろう。

 結局、その日は自習はおろか、講義もろくに頭に入らないまま帰宅した。用意されていた晩ご飯を食べ、トイレへ行き、お風呂に入り、布団にもぐりこむ。なんだこれ、動物と一緒じゃないか。いや、動物は自分で生きている。私は自分で生きてなんかいない。どんなに嫌なことがあっても、動物は自分で餌をとり、自分で巣を作り、自分で暖かくして寝る。私は?私は嫌なことがあったら、何もできなくなる。与えられた自分の部屋で、布団にもぐって小さくなるだけ。身体だけが、無駄に動物より大きいいくせに何もできない。160センチで50キロという自分の身体が、大きなごみのように不快なものに思えた。

 情けなくて、閉じた目から溢れた涙が頬を伝う。外敵から逃げるように、必死に縮こまる。だけど逃げられない。いまは外敵なんていないから。どこにもいない。私は手を伸ばして、ベッドの下に落ちていた携帯を拾い上げる。いちばんしてはいけないことを、しようとして。

 夢の中で、人を殺してしまうことがある。お金を盗んでしまうこともある。当然、夢の中の私は犯罪者になり、警察に追われる。だけど夢から覚めて、罪を犯していなかったことを知り、安堵する。だけどその日の朝は、そうじゃなかった。私のしたことは夢ではなかった。その履歴が、はっきりと携帯に残っている。そして、返事はきていなかった。

 最悪な気分のままベッドから起き上がった。学校に行きたくない。学校が嫌だからじゃなくて、自分が嫌だから。こんなに嫌な自分を、人に見られたくない。いつもどおりの時間に家を出たけれど、いつものバスには乗らなかった。駅まで歩いて、駅ビルの中の書店に入ってみる。就職で差をつける。自分らしい結婚。彼に愛される方法。叱らないで子供を育てる。30歳からのアンチエイジング。あがらない面接。財務会計の基本。マネージメント。目に入ってくる活字はどれも、ますます私の気分を落ち込ませるものばかり。

 もう何も見たくない。そう思って書店を出ると、隣はCDやDVDのレンタル店だ。好きな音楽って、私にはなかった。かわいいアイドルやかっこいいバンドマンも、興味なかった。けれど、ちょうどそのとき流れていたのは英語の曲だった。歌詞が理解できないだけでもなんとなく落ち着く。作詞者の愚痴を聞かされなくてすむから。この曲は何だっけ、聞いたことがある。私が知っているくらいだから、有名な曲だろう。ヒットチャートなどというものにも興味のない私は、定番映画とポップの貼られた棚を眺めていた。鈴木さんなら、こういう映画はひととおり見ているんだろうな。同時に、昨夜してしまったことを後悔する。謝罪のメールを送ることも怖くて、なかったことにしてしまいたかった。

 そのとき目に留まったDVDのケース。そうか、これだ。さっき流れた曲は、この映画の歌だ。昔テレビで流れていたのをちらっと見た記憶はあるけれど、通して見たことはない。私はそのDVDを借りた。

 家に帰ると、母が居間から出てきた。

「どうしたの?」

 まだお昼前なのだから、当然の反応だった。

「ごめん、今日どうしても行く気しなくて」

 私がそう言うと、母は心配と恐怖が混じったような顔をして言った。

「何かあったの?」

 部屋にカバンを置いて、DVDを持って居間へ戻った。

「なにも。お母さんこれDVD見れる?」

 テレビの周りを見てみたけれど、やり方がわからない。

「ねえごまかさないで、何かあったんでしょ?」

 母は私の質問には答えず、顔を覗き込むようにして言った。

「今日、何かがあったわけじゃないよ」

 学校をサボっていることはもちろん、悪口のことを両親に話したことはなかった。たぶん、私と同じような立場にいるほかの子供も同じだろう。

「いつあったの、ちゃんと話して」

 母はすがるような姿勢で言った。

「これ、見てからがいい」

 私がそう言うと、母は泣きそうな顔つきになった。話を後にしようとする私の態度から、事実以上に深刻な話を想像しているのかもしれない。男女関係のなにか、とかそういう……。

「お母さんも詳しくないんだけど」

 と言いながら、テレビの下にあった四角い機械のスイッチを入れる。母が慣れない手つきでボタンを押すと、ディスクを入れるトレイが飛び出した。

「ここに入れればいいの?」

 私はケースから取り出したDVDをそこへ乗せた。さっき母が押したボタンをもう一度押すと、ディスクは機械の中へ入っていった。

 母は台所へ行って何かしていたけれど、途中から居間へ来て一緒に映画を見ていた。男の子が4人、線路の上を歩いていくシーンは見覚えがあった。どこが、とは言えないけれど、いい映画だと言われるのはなんとなく分かる気がする。

 こういう友達関係は男の子だけのものなんだろうか。それとも女の子にもあるの?私だけにないものなの?

 あの頃みたいな友達はもうできない、という語りで映画は終わる。そんな言い方しないで欲しい。もうできないなら、その歳を過ぎてしまった私には……?私にはもう大事な友達はできないの……?

「なんでこれ、見ようと思ったの?」

 母がソファに座ったまま言った。

「見ようと思ったわけじゃないよ。映画が見たかっただけ」

 どうして、と母は聞いた。

「映画が好きな友達がいたの」

 母は黙っていた。私は何を話そうとしているんだろう。自分でもよく分からなかった。

「ちょっと嫌なことがあったときに、その子が優しくしてくれて」

 母の表情は複雑だった。

「そんなことちっとも言わなかったじゃないの」

 そりゃ言わないよ。言わないのか、言えないのか分からないけど、子供なりに言わない方がいいって感じるんだよ。

「その子がバイクに乗ってたの」

 母を責めたいわけじゃない。ただ、思ってることを話してるんだ。

「それって男の子?」

 なのにどうして、どうしてそんなに、私の神経を逆なでするような言い方をするの。

「男の子だとどうなの……?」

 私は子供だから、そんなふうに言われたら素直に話せない。男の子だと何を心配してるのかくらい、私にももう分かるよ。でも早いよ。3年か5年か、わかんないけど早いよ。ナイフをもてない子供が、ナイフで手を切るんじゃないかって。お母さんが心配をしてるのはそういうことだよ。わたしはまだ、そんなところまで全然辿りつけてないんだよ。

「それでバイクに乗りたいなんて言ってたの」

「待ってよ、男の子だとどうなのよ」

 違う。こんな話をしたいんじゃない。どうしてこういうふうになっちゃうの?

「男の子だったら」

 母は言った。

「お母さんが何を心配してるのか、分からない?」

 分かるよ。そりゃあ心は読めないから違うかもしれないけど、親が女の子と男の子の関係で心配することは、単純だよ。

「分かるよ」

「でも男の子じゃないから」

 ぶすっとした顔のままで言うと、母は本当に?と尋ねた。

 そこがいちばん重要なの?お母さんは、私が心配してることが分からないの?私には分かれって言うくせに?単純なものとして私を見ないでよ。もっと複雑だよ。

「女の子だよ!女の子がバイクに乗るはずないと思ってるんでしょう!」

 少し大きな声を出すとは母は慌てたように付け加えた。

「そんなこと言ってないでしょ。聞いただけよ」

 聞いただけ?私は性別の話なんか、これっぽっちもしていないのに。

「……その子が、私が落ち込んでるときにカラオケに連れて行ってくれたの」

 ねえ、どういう子だと思う?お母さんが想像する女の子は、どういう人?どういう格好で、どういう話し方で、学校ではどうやって過ごしていると思う?

「活発な子なのね」

 活発ね。活発ってなに?アカネさんは活発かもしれないけど、鈴木さんは活発というタイプじゃないよ?

 どうしてこんなに伝わらないんだろう。分かってくれないんだろう。私が1.5と言っても、お母さんは1か2のどっちかとしてしか捉えてくれない。

「もういい」

 DVDを取り出して、自室へ戻る。お母さんはたぶん、私のことをあれこれ想像して、ありがちな結論を出すだろう。そしてそれは見当はずれではないかもしれない。だけどそれは一般論で、私を理解しようとしてくれた結果じゃない。1か2というメジャーな数字かもしれないけど、1.5という中途半端な数字じゃない。

 中途半端な私を、誰も見てくれない。

***

 講義の始まる5分前。前の列に入ってきて、斜め前の席に座った女子生徒に目がいった。少しパーマのかかった髪が背中を覆い、蛍光灯の明かりをまぶしいくらいに跳ね返す。濃い色のセーラー服は、全国でも学力でトップレベルといわれる女子高のものだ。その横には無造作ヘアを整えた男子生徒が座っていた。

「もう始まんぞ」

「ゴメン、先生に引き止められちゃって」

 女子がカバンから教科書やノートを取り出して机に並べる。

「お前に気があるんじゃないの」

「はいはい」

 先日廊下で見かけた2人だろう。まさか同じクラスだったなんて。早く講師が来て授業をはじめて欲しい。これ以上彼らのおしゃべりを聞いていたくなかった。

 私の願いが通じたのか、それからすぐに講師がやってきた。けれど私は彼らを意識の外に追いやることができなかった。おしゃべりはしていない。一言も発していない。けれど、シャーペンの頭で相手を突っついたり、ノートに落書きしたり、それをやり返したり。講師が注意するほどではないのが、かえって困る。集中できないことも困るけれど、また家に帰って不安な気持ちになるのはもっと困る。どうして彼らのせいで、一喜一憂、いや一憂一憂していなければいけないんだろう。

 そんなことを思いながら、辛うじて板書をノートに書き写していた。そのとき、何か白いものが女子生徒の背中に飛んできた。何かと思って見てみると、またひとつ飛んでくる。両側を見ると、左側の男子は静かに黒板を見ていた。右側の女子が、消しくずを投げていた。机の上に溜まった消しくずを、目の前の女子生徒の背中に投げる。消しくずは彼女の髪の上をすべり、カーブした髪の毛の中に引っかかった。

 私が見ていることに気がついたのか、その女子は気まずそうに、でもちょっと楽しそうに微笑んだ。そして私が見ている前で、目の前のセーラー服に向かってあかんべーと舌を出した。

 最初はあっけにとられたようにその子を見てしまったけれど、うっとおしかったのだろう。その子もきっと、前の席でいちゃついている2人が。彼女は舌を出したあとでもう一度私に向かって笑い、それで気が済んだのか、あとはひたすらノートをとっていた。

「さっきはごめんねえ」

 講義が終わってから、前の2人が出て行くのを待っていたかのように、彼女が話しかけてきた。

「あ、ううん……」

 慌てて首を横に振る。私が敵意を持っていないと感じたのか、彼女は顔を近づけてきてささやいた。

「あの2人さ、いっつもふざけてるんだよね」

 さっきの様子を見れば、それもうなずけた。

「しかも来るのが遅いから、避けて座るってのもできないし」

 家でやれっつーの、といって彼女は笑った。不思議な子だな、と思った。私にそう思われるなんて心外だろうけど、どっちかと言うといい意味でだ。

 言葉はわりと過激なんだけど、いかにものんびりした声と表情が、聞く側にそれを許す気持ちにさせてしまう。得な性格かもしれない。

 次の講義もそのまま隣で受けて、駅まで一緒に帰ることになった。その途中で彼女が

「ねえ、どこの高校?」

 と聞いてきた。私が○○高校と答えると、彼女はそっかーと言って私の制服を上から下まで眺め回す。

「いいなーその制服」

 そんなことを言う人を、はじめて見た。

「私は○△高なんだけど、知らないよねたぶん」

 知らない名前だった。高校なんて、学区内と私立の一部以外は知らない。予備校のようにいろんな学区の生徒が集まれば、知らない学校の方が多いのだろう。

「ごめん……」

 いいのいいの、と彼女は笑った。

「予備校来て、そこの学校の人けっこういるからさ、制服かわいいなーと思ってたんだ」

「これ、どこがかわいいの……?」

 いたってシンプルな、公立校ですと看板を立てているような制服だ。

「かわいいじゃーん。ジャケットとスカートの色が違うところ」

 色……と言うか、グレーの濃さが違うだけ。彼女の制服は濃紺の上下で、これもまたいかにも公立高校といった制服だった。けれど、結局は着ている人が問題なのであって、明るくて人懐こい彼女が着れば、紺だろうとグレーだろうと、何だってかわいいに違いない。

 JRと私鉄の乗り場のところで、彼女と別れた。

「それじゃ、おやすみー」

「おやすみ、またね」

 程よい丈のスカート姿が改札の向こうに消えていくのを、なんとなく見送ってしまった。

 その日以降、彼女とはよく隣に座るようになった。初めのうちは彼女が隣に来てくれることが多かったけど、慣れると私も隣に座れるようになった。

「カナちゃんごめん、シャーペンの芯持ってる?」

 私がペンケースからプラスチックの容器を取り出して渡すと、彼女はありがとーといって微笑んだ。人をファーストネームで呼ぶことに慣れない私は、彼女を姓で呼んでいた。

「水野さんの学校って、夏と冬でネクタイの色違うの?」

 彼女の首に巻きついた、赤いネクタイを見てそう聞いてみた。以前はもっと鮮やかな赤だったような気がしたから。

「ああ、これ?」

 彼女はちょっと恥ずかしそうな顔をすると、ベストの胸元にのぞくネクタイに手をやった。

「これはねー、違うんだよ」

「ほんとは学校のやつ使わないといけないんだけどさ、冬服と一緒にクリーニングに出しちゃって」

 だから似たような色のを使ってるんだ、と彼女は言った。彼女の飾らないマイペースさは、一緒にいてとても楽だった。飾らないという点では鈴木さんも同じだけれど、色で言えば鈴木さんは青。水野さんは黄色かオレンジ色だ。高校の偏差値も同じくらいらしく、いろんな意味で気を使わなくてすんだ。

 夏休みも近づいてきたある日、参考書を買いにいった。ターミナル駅のそばにある大きな書店を出ると、夏の日差しが目を刺した。

 すぐにUターンして帰る気もしなくて、少し街を歩く。以前鈴木さんと出かけた、映画館の前を通った。彼女はいま、何をしてるんだろう。一緒に過ごした時間はとても楽しかったはずなのに、それを思い出すととても悲しい。

 鈴木さんの中身はアカネさんだ。アカネさんの中身が鈴木さんだとも言えるけれど、とにかく、明るくてきれいでかわいいアカネさんなのだ。友達だって、恋人だって、すぐにできてしまうんだろうな。そうしたら忘れてしまうんだろうか、私のことも。この街でのことも。

 参考書の入ったビニール袋が指に食い込み、それを胸に抱えなおす。

(勉強しなきゃ……)

 アカネさんが私に不釣合いなくらい立派な人だってことは、はじめから分かっていた。なのに私は、アカネさんにとっての特別な人でいたいと思ってる。そんなの無理だ、どう考えたって。人間の出来が、ぜんぜんちがう。だけど……。

 だけど少しでも近づきたいなら、私にできることをがんばってやるしかない。

 私は向きを変えて駅へ歩き出した。受験まであと半年ちょっと。鈴木さんがこっちへ戻って来るのかどうかは分からないけど、せめて半年くらい、がんばろう。

 そんなことを考えて、歩幅を広げて歩いていたら、水野さんがいた。こっちに向かって歩いてくる。明るい色のワンピースを着て、表情はいつも以上に明るくて、その隣には男の人がいて、二人の手は繋がっていた。

 知らん振りして通り過ぎるべきかどうか、一瞬悩んだ。彼女のためにではなく、私のために悩んだ。だけど水野さんは、まだ10メートルくらいあるのに私に気がついた。私は軽く会釈をした。水野さんは

「やっほー!」

 と手を上げた。そうだ、水野さんはたぶんこういう子だ。彼氏の手を解いて駆けてきて、私に笑いかける。

「ごめんね、びっくりしたでしょ」

「あ、ううん」

 恋人のことを言っているのはすぐ分かった。

「いちおう彼氏なの」

「い、いちおう……」

 水野さんの言葉に、後ろから追いついた彼氏が情けなさそうな顔で笑った。水野さんは彼に向かって、

「ほら、この間話したカナちゃん」

 と言った。彼はああ、と言う表情を見せると、

「高木です。可南子ちゃんだよね、舞から話をよく聞くよ」

 と落ち着いた口調で言った。

「あ、橋本です。水野さんにいつもお世話になってます」

 ありきたりすぎる挨拶を返す私。それを聞いた水野さんは、

「もう!ぜんっぜん。私が一方的にお世話になってるだけ」

 ね、と言って笑う。うんとも言えないで困っていると、高木さんが

「うん、言われなくても分かるよ」

 と言って私たちを笑わせてくれた。いつもありがとね、と高木さんが言ったあとで、

「本買いに来たの?」

 と、水野さんが私の抱いている袋を見てそう尋ねた。

「あ、うん参考書」

 なんとなくあまり見られたくなくて、抱えなおした袋がぱりっと音を立てた。

「そっかー、偉い」

 私はそんなことないよと言って笑おうとしたけれど、今日もまた、上手く笑えたのかどうか分からなかった。

「じゃーまた月曜日に」

 水野さんはそう言って手を振った。高木さんもまたね、と言って軽く手を上げる。

「はい、また」

 2人の後姿を確認して、私は歩き出した。駅まで戻り、切符を買った。改札を抜けてホームへ降りると、生暖かい風が髪を揺らした。

 びっくりしたでしょ、と水野さんは言った。びっくりしたと思う、確かに。だけど、水野さんに恋人がいることは、びっくりするようなことじゃない。むしろ、いないほうがおかしいくらいだ。だからショックじゃない。そのことがショックなんじゃない。そのことに動揺してしまう、自分の小ささがショックなんだ。

 ホームに電車が入ってきて、たくさんの人が降りてくる。座席に空きが目立つくらいになった電車の、窓際に突っ立って外を見る。小さな揺れとともに電車は走り出し、次の駅へ向かう。時刻どおり。予定どおり。なのにどうして私の心は、予定どおりに動かないんだろう。

 寂しい。今の気持ちを一言で言えば、そうなる。そりゃそうだよ、中学から友達なんかほとんどいない。やっと仲良くなった鈴木さんは転向してしまうし、水野さんには恋人がいた。もっとたくさん友達がいればいいのかな?そうすれば寂しくないのかな?想像もできないけれど、もしも友達に囲まれて毎日を過ごしたら、寂しくは感じないのだろうか?

 たぶん、違う。だって、私よりずっと友達が多い人たちも、いつも寂しそうにしているのだから。だからみんな、しょっちゅう携帯の画面を見てる。車内に目をやると、7人がけの座席に座った6人のうち、半分が携帯を眺めてる。反対側の座席も似たようなものだ。

 友達がたくさんいても寂しさは消えないのなら、どうしたら寂しがらずに暮らせるんだろう。どうしたら自分を嫌わなくてすむの。

 鈴木さん。

 鈴木茜なら、なんて言うだろう。バカだねって言われそう。そのままの意味で。きっと私バカなんだと思う。生まれるときに、何か忘れてきたんじゃないかって本気で思う。

 どうしたらバカじゃなくなるんだろう?そんなこと、茜には聞けないけれど。死んでも聞けない。

 家に帰って携帯を見る。以前、私が鈴木さんに送ったメールを見る。ひどい文章だと思う。鈴木さんを、寂しさが治る薬か何かだと思ってる。しばらくして帰ってきたメールは、私が書いたことに触れていなかった。

「もおおおぉっ!」

 手にしたそれを、思い切り床に叩きつける。ガンという音がして、カコンと何かが飛んだ音が続いた。ベッドの上に置いてあった、買ってきた参考書をはたき落とす。ばららっとページがめくれ、それからパタンと閉じる。帯だけがだらしなく外れている。

 ベッドの足元にたたんであったタオルケットにもぐりこみ、丸くなる。結局私はこれしかできないのだろうか。寂しくて悲しくて情けなくて、布団の中で縮こまることしか。こんな自分が嫌だ。死にたい。死ねば誰も私を嫌わない。私も私を嫌わない。

 気がつくと、私は高い建物の上にいた。

 自殺するためなんかじゃない。そんな勇気が、私にあるわけがない。これは夢だった。夢だと分かる夢がたまにあるけれど、まさにいまがそう。にもかかわらず、夢とは思えないほど怖い。高いところが怖いのだ。足元がぴりぴりするような感覚が、リアルに感じられる。夢だから落ちることはない。もし落ちても死なない。なのに身体は怖がる。夢の中で頭が描いた妄想を、身体は本当に怖がってる。

 そんな状態がどれくらい続いたのか分からないけれど、しばらくして目が覚めた。外は暗くなっていた。タオルケットを巻きつけていたせいで、上半身は汗びっしょりだった。 ベッドから起き上がり、机の上のスタンドを付ける。床に落ちていた携帯を拾うと、バッテリーがコロリと落ちた。それをはめ込んで起動ボタンを押してみても、電源は入らなかった。

「起きたの?」

 開けっ放しだったドアの隙間から、母がのぞいた。

「何度か呼んだけど起きないから、ご飯先食べちゃったわよ」

 私が黙っていると、母はそう言って戻っていった。濡れた服を着替え、散らばっていた参考書を机に戻した。頭が働いていないだけかもしれないけれど、気分は少し落ち着いていた。

 ダイニングへ行き、伏せてあった茶碗にご飯を盛る。居間のテレビで、父が野球中継を見ていた。

『さあ、ジャイアンツの攻撃は7番○○からです』

 ずっと同じアングルで写した映像が続く。何が面白いのか分からなかった。

「野球って何が面白いの?」

 私が聞くと、父は「はぁ?」と言ってこっちを向いた。

「なんだ、突然」

 母も怪訝そうな顔でこっちを見ていた。私がおかしくなったとでも思っているのだろうか。

「お父さんなら理屈で説明してくれるかなと思って」

「理屈で聞いてどうするんだ」

 いいから教えて、と私が言うと、父はしばらく考え込んだ後でこう言った。

「楽しみにしてるから、面白いんだ」

「なにそれ……。理屈じゃないじゃん」

 父は少し笑ったけれど、

「いや、人間は楽しみにしてることは、面白く感じるんだ」

 と続けた。私が「同じことでも?」と聞くと、そうだと頷いた。

「例えばこのビールがあるだろ」

 そう言って、グラスに入ったビールを持ち上げる。

「これを朝会社に行く前に飲むのと、帰ってきて野球を見ながら飲むのと、同じ味だと思うか?」

 同じ味じゃないの、と私が言うと、理屈で言えばな、と父は答えた。

「でも違って感じるんだ。なんとなく分かるだろ?」

 分からないでもない。でもそれは、

「理屈じゃないよね」

 私が笑うと、

「お父さんはそういう分野の専門家じゃないからな」

 と父は言ってビールを飲んだ。気になるなら大学で勉強すればどうだ、と。

***

 夏と言えば、思い出を作る季節、みたいなイメージがある。それは動物の本能からくるものなのか、ありきたりな価値観に染められてるだけなのかは分からないけれど。

 間違いなく言えることは、いままにそんなことはなかったし、そして今年も、特別な思い出なんか残らないだろう、ということだけだった。

 電車の窓の外を流れていく景色を見ながら、またしても卑屈なことを考えてしまう。

「それでさあ、やることやったあとで終電で帰れって言うの。ひどくない?」

 反対側の窓のところで、大学生くらいの女性が2人で話していた。声は大きくないものの、基本的に静かな車内でその声ははっきり聞こえる。

「別れちゃいなって」

 もう1人はそう答えながら、携帯の画面を鏡代わりにして髪を整える。朝から、爪楊枝で胸をかき回されるような嫌な気分だった。そしていつもどおり。そんなことに気分を害する私自身が、なにより嫌なのだ。

「カナちゃん、おはよー」

 水野さんがやってきて、隣の席に腰掛けた。薄手のブラウスに、ほんの少しだけ汗が染みている。

「走って来たの?」

 私が聞くと、え、分かる?と言って、カバンからハンドタオルを取り出した。

「ちょっと寝坊しちゃってさ」

 夏休み中は予備校の時間が前にずれ、普段学校へ行っている時間帯になる。この時間に水野さんと一緒にいるのは不思議な感じだった。

 スカートからブラウスを引っ張り出し、裾から腕を入れて汗を拭いている。それをすると、下着の帯の部分が背中に透ける。ブラウスを前に引っ張ることになるのだから。ちらりと後ろを見ると、おとなしそうな女子生徒が座っていた。

「この間3年になったかと思ったらさー」

 水野さんがハンドタオルをカバンにしまいながら言った。

「もう夏休みだもん、早いよー」

 ほんとだった。このぶんじゃ、気がついたら受験当日になっているのだろう。

「そういえば、高木さんて大学生?」

 年上に見えた彼が、大学という言葉から連想された。

「んーん、もう社会人。今年30歳」

「えっ」

 思わず声を上げてしまった。そんな歳には見えなかったから。

「若く見えるよねー。子供というか」

 水野さんは言いたい放題だけど、私は素直にうんと言うわけにもいかない。適当な相槌を打つと、

「しかも奥手でさー」

 水野さんがポソリと言葉を加えた。私がそうなんだ、とだけ言うと、

「あ、ごめんね」

 と苦笑いした。水野さんはきっと、彼氏の話をしたいんだろうな。でも私にはいないのを知っているから、わざと避けてくれているのだろう。自分から話題を出してしまったくせに、上手く聞いてあげられない。そんな自分が情けなかった。

 水野さんはどうして私なんかと一緒にいるのだろう。隣県から来ていて、学校の友達が少ないせいもあるだろう。それにしたって、私よりは水野さんを楽しく過ごさせてあげられる人が、きっとたくさんいるだろうに。

 昼休みになって、私たちは予備校の近くの公園へお弁当を食べに行った。ずっと教室にいると身体が凝ってくる。休憩室もあるけれど、生徒が一斉に使うだけの広さはない。

 こういう時間に1人でいるのはすごく寂しいものだ。中学高校とそれを体験してきた私にとって、隣に水野さんがいてくれることは幸せなことだった。きっと私1人だったら、教室でボソボソと、乾いたご飯をお腹に詰め込んでいたんだろう。水野さんにその気はなかったとしても、いまの私は彼女に支えられていた。

「さっきの話なんだけど……」

 だからもし、水野さんが私に話したいことがあるなら、私はそれを聞いてあげたかった。役不足であることは承知の上で。

「ん?」

 箸を持つ手を休めて、彼女がこちらを見る。

「高木さんの話……」

 水野さんはああ、という顔になってから、笑って言った。

「ごめんねー、つまんないこと言っちゃって」

 つまんなくないよ、と私が言うと、水野さんは黙ってお茶を飲んだ。

 それから少し小さな声で

「……まだ何もしてなくてさー」

 と言った。男女の間ですることを、ということだろう。鈍い私でも、それくらいは分かった。

 サアアッと気持ちいい風が吹き、公園中の木がざわざわと葉っぱを鳴らす。

「えっと……その」

 次の言葉を。

 聞きたくないわけじゃないんだ。ただ次の言葉が見つからないんだよ。

「その、水野さんは……したいの?」

 ひどい、直接的で気づかいのかけらもなかったけれど、水野さんは気にしていないふうだった。

「分かんない」

 でも、と彼女は続けた。しばらく、セミの声だけがあたりに響いた。

「不安になっちゃって」

 その理屈は私にも分かった。実際にどういう気持ちがするものか、はっきりとは分からない。でも、水野さんが言いたいことはつまり……

「私のこと好きなのかなぁ」

 うん、そうだよね。もちろん、その答えは私には分からない。高木さんは水野さんのことを愛しているように見えたけど、そもそも愛がなんだか知らない私が判断できることじゃない。

「好きなんじゃないかな……?」

 私が言うと、水野さんはその顔をこっちへ向けた。黒い瞳が私を見る。鈴木さんと目の形は違うけれど、瞳が黒いのは同じなんだな、と変なところで感動する。どうして?と彼女は聞いた。唇が、ほとんど動かなかったように見えたけれど、確かにそう聞こえた。

「だって、水野さんかわいいし、いい子だし……」

 私の感想を言ったところで理由になんかならない。そんなこと分かってるはずなのに。

「もう……っ」

 水野さんは噴出すように笑った。食べかけのお弁当を横に置いて、私のブラウスの袖を掴んだ。

「理由になってないよ……」

 顔は笑っていて、眉間にだけは少し力が入っているような複雑な表情。日が陰り、セミの鳴き声がぱたりとやんだ。聞こえるのは少し離れた国道を通る自動車の音だけ。

「でも、そう思うよ」

 どこかから、電話の音が聞こえる。プルルルル、という標準的な呼び出し音。近所の家か、会社の中からだろうか。

「ありがと」

 水野さんは私のブラウスを掴んだままそう言った。その顔は、いつもの笑顔になっていた。

 夏休みも終わりに近づいたころだった。家に帰ると、机の上にはがきが置かれていた。母は私宛の郵便物を机に置いていく。カバンを置き、はがきを手にとって眺める。どうせ予備校のお知らせか何かだろう。そう思っていた。

 宛名のところに、

 ○○市○○町2222−304

 橋本可南子様

 と書かれている。手書きの丁寧な文字だった。その横に目をずらして、私の心臓はどくんと跳ねた。

 △△市△△1-10-1-201 鈴木茜

 震えそうな手で裏をめくる。夕焼けの景色が描かれたプリントとはどこか不釣合いな、鈴木さんの筆跡。

 可南子へ

 暑いけど元気?

 最近携帯の電源切ってる?住所を聞こうと思ったけどつながらないので、連絡網に載ってた電話番号で調べました。

 受験まであと半年だね。勉強はかどってますか?

 また会えるのを楽しみにしてるよ。

                    茜

 このはがきを、私はきっと死ぬまで大切にする。たかが残暑見舞いでそんな大げさなと思われるかもしれないけれど、それくらい嬉しかった。ひどいメールを送った挙句に携帯を壊してから、連絡もしていなかった。

 鈴木さんのはがきは、そんな私とはすれ違っている。いい意味で。彼女は私に、その場限りの優しい言葉をかけてくれたりはしない。委員長だったころの鈴木さんを思い出せばよく分かる。彼女はただ、行動で私を気づかい、助けてくれた。

 私の憂鬱なメールに、それらしい返事をするのはきっと簡単だ。私が欲しがっている言葉が、鈴木さんにはすぐ分かるだろうし、実際私もそういう返事が欲しかった。だけど心の奥で、そのやりとりに何の意味もないことは分かっていた。そして鈴木さんはそれをしなかった。その代わりにいま、わざわざ住所を調べてはがきを送ってくれたのだ。私が欲しい言葉なんかじゃなく、鈴木さんの言葉を書いて、送ってくれたのだ。

 やっぱり彼女は大人だと思った。私なんか、到底追いつかないくらいに。

***

 12月に入り、受験生としての生活もあと3か月あまりとなった。あとはもう、自分のペースで勉強を続けるだけだ。高校生活もあとわずか。寂しいと思う人が多いだろうけど、私はほっとした。

 もう少しで、いやがらせや悪口というものから逃げ切れる。卒業というラインを超えれば、それらはもう追いかけてはこない。小学校、中学校と同じ思いで卒業式を迎え、けれどその上の学校でも結局同じことに傷ついてきた。

 だけどもう終わりだと思う。大学は違う。きっと違うはずだ。大学が素晴らしい場所だなんて期待していない。普通でいい。周りの人から否定されず、普通に過ごせればそれでいい。その思いだけが私を動かす燃料になっていた。

 そんなある日。学校の廊下で、2年のときの悪口グループに会ってしまった。彼らの顔は、私の中に恐怖の象徴として刻み付けられていた。それを見ただけで立ちすくんでしまい、早くなる心臓の音が耳の中で響く。知らん顔で立ち去ろうとしたけれど、たまたま目が合ってしまったのだ。

 すぐに目をそらしたけれど、もう遅かった。

「おっ、橋本さんじゃん」

 目を合わせた男子が、標的を指示するようにわざとらしい声を上げる。その場にたむろしていたメンバーの視線が私に向けられた。ニヤけた顔で、口は薄く開いて銃口のよう。今にも私を撃とうしている。

「お、橋本さん久しぶりぃ〜、元気?」

 別の男子がヘラヘラ笑いながら、私を覗き込むように横を歩く。言葉の弾丸で死なない程度に私を撃ち抜いて、それを見て笑うのだ。逃げよう、逃げなきゃ。殺されちゃう。早く、早く廊下の端まで。

「なんだよシカトかよ〜」

 誰かが投げた紙くずが頭に当たった。痛くはなかった。当たり前だ、紙だもん。

「おい投げんなって、かわいそうだろ。なあ橋本さん」

 彼らの言葉はその何倍も硬く、鋭い。そんなものから身を守る術は、私にはない。それに身体中が貫かれて、立って歩けるのが不思議なくらいだった。大げさじゃない。私の心はもう、半分くらいは齧られてなくなってる。全部なくなったら、私はどうなるの。

「あーウケる」

 見ているものすべてが幻覚なのかと思えるほどに、自分が自分を否定する。リアリティのない視界の中を、走ることもできず、俯いたまま歩き続けた。

 彼らはそれ以上追いかけてこなかった。後ろから投げつけられる言葉と笑い声に突き飛ばされるみたいに、廊下の端までたどり着いた。嵐の夜道を何キロも歩いてきたみたいに、全身が疲れきっていた。

 今日は、もう帰ろう。

 まだ昼前だったけれど、とても授業を受けられる気分ではなかった。この建物の中にいるのも辛かった。予鈴が鳴って、廊下に人がいなくなった頃合を見計らって、廊下側にある自分の席から素早くカバンを取った。周りの人がこっちを見たけれど、構っている余裕はなかった。とにかく逃げたかった。地獄のような、この建物から。階段を駆け下り、職員室から上ってくる教師たちとすれ違う。

「おい、もう授業始まるぞ」

 それに答えることもせず、ひたすら駆け下りた。授業は休みます。休んだ方がいい。周りの迷惑にもならない。先生に何とかしてくださいとは言わない。だからせめて、それくらい許して。

 昇降口を抜けて、校門をまたいだ。完全に高校の敷地から抜け出して、ようやく少し落ち着けた。貧血で倒れそうなときに、ようやく空いた席に座れた。そんな気分だった。

 いちばん近いバス停には、まだ誰もいない。授業中なのだから当然だ。それでもそこを使う気にはならなかった。商店の横の路地を通り、神社の脇を抜けると、いつもの坂道に出る。比較的新しいマンションが立ち並び、その先は段々になった土地に民家と空き地が交互に続いている。空き地に生えた枯れススキが、サワサワと音を立てて揺れていた。

 2度目にアカネさんと会ったのが、ちょうどここだった。あれは3月だったから、もうすぐ1年近くが経つ。頂上まで上ると、視界が明るく開けた。南向きの斜面に日が当たり、地主さんの土地なのか、道の両側を覆っていた林もここで途切れる。

 この坂道が、私はなんとなく好きだった。たぶん、遠くが見えるからなのだと思う。せまい学校、せまい日常、せまい心。そこから抜け出したくて、でも抜け出せない。そんな私にとって、遠くまで見渡せるこの坂道が小さな希望だった。少し先にある県道は、いつも車で賑やかだった。そこまで降りてバスに乗るのが、私の常だった。

 最寄り駅で降りてから、DVDのレンタル店に入った。いつかと同じ、定番映画の棚を探す。流れている曲は違ったけれど、あの映画のDVDはそこにあった。

 12時過ぎに帰った私を見て、母はあの時と同じような心配をした。私は適当な理由を探してそれに答え、居間のプレーヤーにDVDをセットした。ほとんどすべてがあの時と同じで、再現映像のようだった。

「またそれ借りてきたの?」

 母がまた、心配と恐れが混じった声で聞く。本来学校へ行っている娘が2度も同じ時間に帰ってきて、同じ映画を見ているのだから、親としては心配になるのだろう。

 でも、その時の私は映画のほうに集中していた。以前見たときとは少し印象が違ったのだ。よく見ると、この男の子たちは皆悩みを抱えている。それに傷つけられている。それは子供という立場にいる限り逃れることができない悩みで、程度の差はあれ私と似ていた。

 私の周りの人たちも、悩みを抱えている。鈴木さんも、水野さんも。私が知っているのは彼女たちの悩みの一部でしかないのだろう。アカネさんのあの満面の笑みの裏に、鈴木さんという人格が隠れているなどとは想像もできなかったのだから。

 みんな悩みを隠していて、親に分かってもらえず、毎日が寂しくて、自分が憎い。そうなの?だとしたら、私もみんなのようになれるの?

 鈴木さんのように、なれるのかな?

「カナちゃん、昨日どうしたの?」

 翌日予備校へ行くと、水野さんが隣に来て言った。

「ん、ちょっと気分悪くて……」

 私が答えると、水野さんは不安そうな顔をして、大丈夫?と聞いた。

「うん、今日はもう大丈夫」

 水野さんはそっか、と言っていつもの笑顔に戻った。そして、その笑顔のままで言ったのだ。

「心配事とかあれば言ってね」

 と。

 そのとき私はどんな顔をしただろう。自分では分からないけれど、表情を読むのが上手い人ならば、私の動揺を見抜いたかもしれない。

 昨日は映画を見て、部屋で夜までぼーっとしていた。今朝起きて、学校でのことはそれほど引きずっていない、そう思った。少なくとも学校では1日過ごせたし、予備校に来ることも億劫ではなかった。

 だけどもちろん、心配でないわけじゃない。またいつ、彼らに会うか分からない。同じ校舎の同じフロアにいて、彼らの気分次第でいつでも私はターゲットにされうるのだから。だけどそんなこと、水野さんに言ってどうする。彼氏に愛されているか不安、という水野さんの悩みに比べて、私のそれはとても格好悪いものに思えた。

 講義はいつの間にか終わっていた。2、3時間なにを考えていたのか。ノートだけはとってあったけど、それについての講師の説明を、一切覚えていなかった。

「やっぱり元気ないよ」

 予備校が終わり、駅までの途中で水野さんが言った。

「そうかな」

 3年になってからはあんまり悪口を言われていなかったから、思った以上に昨日のことがショックだったのだろうか。

「何か嫌なことあった?」

 なんと答えればいいのか分からなかった。嫌なことはあったよ。でもそれは今までもそうだったし、人に言うようなことじゃ――

「カナちゃんはあんまりそういうタイプじゃないかもしれないけど」

 水野さんが私の目を見て言った。商店の明かりが、彼女の顔を横から照らした。

「話すと楽になることもあるよ」

 だから気が向いたら話してね、と言って水野さんは微笑んだ。その気遣いが、とても嬉しかった。彼女になら、いいのかもしれない。水野さんになら、私の格好悪いところを見られてもいい。そんな気がした。

「あのね」

 それだけ言ってつかえてしまった。後が続かない。それを言うのが怖い。やっぱり怖い。ダメな奴だと、水野さんに思われたくない。

「うん?」

 水野さんは先を促すように、優しい声を出した。

 言っていいの?

「私……」

 汚いものを吐き出そうとしてるんじゃないの?

「いいよ、ゆっくり」

 包みこむような、優しい声だった。歩幅を私に合わせ、ゆっくりと歩いてくれた。

「学校で……悪口言われたりして、たんだけど……」

 つっかえながら、何とか言葉に出していく。例えが悪いけど、気分が悪いときに、嘔吐しようと口を開いている感覚に近かった。

 水野さんは私のそばに寄り、小さな声で頷いた。

「昨日……久しぶりに、それがあって」

 水野さんが答える代わりに、その手が私の手を握った。

「辛くなっちゃって……」

 そこまで言って、涙がこぼれた。こんなことを言いながら泣くのは嫌だったのに、一度溢れてしまった涙は、私の意志では止められなかった。

「ごめん……っ」

「ううん」

 水野さんは私の手を引っ張り、少し人の流れからそれて歩き出した。私は怒られたあとの子供のように、ただ彼女に手を引かれて歩いた。

 駅前の広場に植わった木々は葉を落し、クリスマスのイルミネーションに飾られていた。人通りは多くもなく、少なくもない。

 そのうちの1本の木のそばまで歩くと、水野さんは黙って私を抱きしめた。

「ごめんね、知らなかった……」

 私はもう声が出せず、彼女の肩に顔を付けたままで首を振った。

「大変だったんだね」

 その言葉に、私の涙の蛇口は更に開かれてしまう。

「う…ぅ…」

 うめき声を上げて泣くことしかできなくて、私は子供みたいに水野さんの腕の中で縮こまった。自分が格好悪いと分かっていながらも、感情が押さえられなかった。

「我慢しないでね」

 親にも先生にも言えなかった。誰にも言えないと思ってた。排泄のような行為を、黙って受け止めてくれる水野さんにしがみついて、私はバカみたいに泣き続けた。

 

 高木さんの部屋でクリスマスパーティをしよう、と言われたのは、それから1週間後のことだった。クリスマスと言えばキリストの誕生日。でも日本の若者にとっては、恋人同士が愛情を確かめ合う日、という意味合いの方が強いだろう。もちろん、高木さんという恋人がいる水野さんだって、その例に漏れないはずだった。

『うん、でも今年はカナちゃんと居たいな〜なんて』

 私のことを気づかってくれているのは、バカな私でも分かった。私が答えられずに居ると、

『高木さんもさ、予定ないならおいでって言ってたよ』

 でも

『だって……』

 だってその日は……。

 奥手な高木さんにとってはその日は大事な日なのに違いない。2人の心づかいは嬉しかったけれど、それでもはいとは言いづらかった。

『カナちゃんが来れなくても、ただご飯食べて、10時過ぎには帰るから』

 水野さんはそう言って、意味ありげに笑った。

 結局、言いづらいかどうかの問題だった。行きたいかどうかと言われれば、行きたいに決まっていた。

「はい、じゃあ乾杯しようか」

 高木さんがグラスにジンジャーエールを注いでくれ、それを持って乾杯した。こたつの上にはキムチ鍋とピザという、不思議な取り合わせのメニューが並んだ。

「お酒はあ?」

 水野さんがニヤニヤしながら言うと、

「未成年はダメに決まってるだろ」

 と高木さん。この2人はいつもこんな感じなんだろうな、と思う。水野さんが、私と居るときの水野さんそのままだったから。

「しょーがないな、食べよ食べよ」

 水野さんはピザを一切れつまむと、私の前の皿に置いてくれた。

「……ありがとう」

「鍋も適当に取っちゃって」

 水野さんはそう言ってこたつに座り、高木さんはテレビの天気予報を眺めていた。

「雪は降らなそうだな」

 1人暮らしの人の部屋に来るのは初めてだったし、友達の家で食事をしたのも初めてだ。はじめは緊張したけれど、のんびりとした雰囲気は不思議と落ち着いた。

「そう言えばね」

 水野さんがまたにやけた顔をして私を見た。

「カナちゃん、高木さんのこと大学生だと思ってたって」

「あ、す、すみません」

 突然のことでびっくりしながらも、咄嗟に謝ってしまう。

「あーそこ、謝らないの」

 高木さんはテレビから目を離し、私を見て笑った。

「いいじゃん、若く見られたんなら嬉しいよ」

 もう一度大学行こうかなぁ、と笑って言った。

「学生のとき彼女できなかったから?」

 水野さんがしらっと言ってのけた。

「まあ、それもあるね」

「でも、いまはこんなかわいい彼女がいるじゃないですか」

 私は思ったままに言ってみた。水野さんが、横でむせた。

「可南子ちゃん……」

 高木さんは私と彼女を交互に見ながら、

「君、いい子だね」

 と真面目な顔をして言った。その本気とも冗談ともつかない様子に、私と水野さんは噴出してしまったのだった。

***

 年も明けて、センター試験が間近に迫った日曜日の夜だった。

「可南子、電話よ」

 母が私の部屋に、コードレスの受話器を持ってきた。誰だろう、こんな時間に。しかも家の電話に?もしかしていたずら電話じゃないか、という不安がかすめる。

 しかし、

「鈴木さんていう子から」

 その名前を聞いて、不安は吹き飛んだ。心臓が鼓動を早くする。受話器を受け取って、部屋のドアを閉めた。

「も、もしもし」

「もしもし、可南子?」

 鈴木さんの声だ。当たり前だけど、本当に鈴木さんだった。

「うん、鈴木さん元気?」

 私が緊張しながら尋ねると、彼女は元気だけど、と言った。

「だけど……?」

「名前で呼んで」

 鈴木さんらしい、はっきりした要求。そう言ってもらえるのは嬉しかった。私もそう呼びたかったから。

 けれど、そう呼んだことは1度しかない。それも泣きながら。その時の記憶がよみがえり、どうしても気恥ずかしさを感じてしまう。

「茜……さん」

 あかね、と呼び捨てにするのが落ち着かず、さんをつけてしまった私に、

「可南子〜?」

 と露骨に不満をあらわにする彼女。

「ごめん、緊張しちゃって……」

 結局私は、10か月前に別れたときから何も成長していないのだろうか。そんなことない、少しは、少しはましになったはずだよ。呼べないはずがない。いちばん呼びたかった、その名前を。

「茜」

 今度は少し、自信を持って、呼んでみた。大好きなその名前を。その響きはきれいな音楽のように、私の中で心地よく広がった。

「ふふ」

 受話器の向こうで、鈴木さんが小さく笑った。

「センター試験だね。来週」

 たぶん、鈴木さんが電話をくれたのはそれでだと思った。

「それで電話したんだ」

 彼女は静かに言った。

「頑張ろうね」

 こっちの大学を受けると、鈴木さんは言っていた。それを確認しようと、喉まで出かかった言葉を飲み込む。

「うん。頑張ろう」

 それは今聞かなくたっていい。いまは目の前の試験をがんばろう。1人で、だけど鈴木さんと一緒に。

「いろいろ話したいけど、今日はこれだけにするね」

 鈴木さんはそう言って、早々に話を切り上げた。そしてそれは正しい判断だと思った。いま長く話したら、きっと止まらなくなってしまう。少なくとも私はそうに違いなかった。

「うん」

 じゃあ、と言おうとしたとき、

「可南子」

 と鈴木さんが私を呼んだ。柔らかい声だった。

「おやすみ」

 私ももう、緊張せずに自然に言えた。

「うん、おやすみ。茜」

 それから後のことは、ほとんど覚えていない。唯一覚えているとしたら、受験当日の朝、鈴木さんがくれた暑中見舞いを見ていた時間くらい。時間は矢のように飛び、そのときそのときは感じなかったのに、後になってみれば本当に一瞬のように過ぎてしまった。悲しむ暇も、自分を蔑む暇もない、ある意味で健全な毎日だったんだと思う。それまで過ごしてきた日々に比べれば。

 すべての合格発表が終わり、同時に長かったようで短かった受験生活が終わった。残念ながら公立は受からなかったけれど、私立大学の学費一部免除枠に入った。1年前の私から見たら、頑張った方だと思う。鈴木さんと水野さんは、共に第一志望校に合格した。それが自分のことのように、嬉しく思えた。

 卒業式までの自由登校期間は、学校へは行かなかった。なるべく落ち着いて考えてみても、行く理由はないと感じた。卒業式だけは出席し、卒業証書をもらってそのまま学校を出た。私の思い出はやっぱり、あの校舎の中にはない。そんな気がした。

 その日の夜、買いなおした携帯に水野さんから電話があった。卒業祝いにご飯を食べようという誘いだった。翌日に鈴木さんが引っ越してくることになっていたので、その手伝いに行ったあとで、水野さんたちと待ち合わせることになった。

「ありがと、もういいよ。あと私やる」

 ひと区切りついたところで、鈴木さんが立ち上がってそう言った。時計を見ると15時だった。

「でもまだ時間あるよ?」

 水野さんたちと待ち合わせたのは18時。駅までの移動時間を考えても、17時に出かければ十分間に合うだろう。

「その前に寄りたいところがあるんだけど、いい?」

 鈴木さんはそう言って、窓から外を見た。

「うん」

 私が答えると、鈴木さんは冬物を詰め込んだクローゼットからスーツ用の袋を取り出した。

「制服、持って来てくれた?」

 そう、なぜか鈴木さんは私に制服を持ってくるように言った。私は同じようなスーツ袋を持ってきていた。

「何に使うの?」

 私が聞くと、鈴木さんはにやりと笑って言った。

「着るに決まってるでしょ」

「えっ」

 彼女はさも当然のように答えると、自分の制服を取り出した。転校先のではなく、○○高校の制服だった。私とおそろいの。

「早く」

 鈴木さんに急かされて。わけが分からないままで制服に着替える。

 お互いに後ろ向きで着替える中で、鈴木さんが言った。

「私ね、秘密にしてたことがあるんだ」

 と。アカネさんと鈴木さんが同一人物だったことだけでもびっくりしたというのに、それ以外にまだ、いったいどんな秘密があるというのだろう。

「なに?」

 私が聞くと、鈴木さんはこれ見て、と言ってカードを差し出した。

「免許証……?」

 アカネさんバージョンの写真がきれいに写った、鈴木さんの免許証。種類と書かれた場所には、普自二とだけ印刷されている。

「分かる?」

 鈴木さんはまたも、そんな聞き方をする。これを見たって、少なくとも私には何も分からなかった。

「分からないよ、免許なんて普段見ないし」

 免許は関係ないんだ、と鈴木さんは笑って言った。ジャケットを羽織る音が聞こえる。

「誕生日」

 鈴木さんはそう言って、私の手から免許を取った。そのまま見える位置に掲げてくれたので、私はブラウスのボタンを止めながら誕生日を探す。

 すぐにそれは見つかった。

 平成X6年 7月15日生

 私よりも2か月ほど早い。でも、鈴木さんが言わんとすることは分からなかった。

「可南子の誕生日と比べれば分かるよ」

 鈴木さんは笑いながら言った。私の誕生日。頭の中でそれを読み上げてみる。

 私の誕生日は、

 平成X7年10月1日

 だ。やっぱり鈴木さんのほうが早く生まれていて、その差は……。

 その差は約、1年3か月。

 つまり、同学年ではない。1年3か月差があれば、鈴木さんが満6歳で迎える4月に、私は満5歳。だから一緒に小学校には入学できない。

 ということは、鈴木さんは私より

「1つ年上……?」

 彼女はにっこり笑って、

「よくできました」

 と言って免許を下ろした。

「私、中学1年しか行ってなくて」

 残りの2年はサボってたんだ。免許を財布に戻しながら、鈴木さんはそう言った。

「なかなか溶け込めなくて、浮いちゃって」

 ああ。分かるよ。分かる。

 鈴木さんも、そうだったんだ。

「そのうち行けなくなっちゃった」

 聞いているのが辛くて、私は顔を伏せた。だけど鈴木さんは、身体を伸ばして私の顔を覗き込む。

「わっ」

 あはは、という笑い声。

「ごめんごめん、もう昔のことだからさ」

 鈴木さんはそう言って、私のネクタイに手を添えた。しめようとして首にかけたままになっているそれを、ゆっくり結んでいく。

「ただ、可南子には言っておきたかったんだ」

 どうして、と私が聞くと、鈴木さんはその黒い瞳を、私の目にまっすぐに向けた。

「そのおかげで、可南子に会えたから」

 そう言って、丁寧にネクタイをしめてくれる。

「茜……」

 そう言った私の肩を、鈴木さんが両手で叩いた。

「これでよし!行こう」

「えっ?」

 鈴木さんは新品のパンストを取り出して私に穿かせ、自分でも穿いた。

「どこ行くの?」

 それには答えずに、ナイロン地の袋を取り出して口を開け、マフラーやコート、それに私が狩りっぱなしにしていたジャージのズボンを突っ込んだ。

「内緒」

 けれどそれを見てようやく、私は彼女のやろうとしていることが分かったのだった。

 学生寮の駐輪場に、あのバイクが停めてあった。鈴木さんは荷物をつっこむと、キーを挿してシートに座った。

「乗って」

 私は手渡されたヘルメットをかぶり、シートの後ろに跨る。少しひんやりする感触が懐かしい。ゆっくりと駐輪場を抜け、車道に出る。小気味よい音を立てて、滑るようにバイクは走った。

 住宅街を抜けて国道へ出る。車の量が増え、大型の車も目立つ。鈴木さんのお腹にしがみついたまま、周りの車を見回す。スーツの男性、トラックの運転手、年配の夫婦、ドライブ中のカップル。いろいろな人がいて、車のナンバーもいろいろだった。彼らからは、私たちはどう見えるんだろう。

 制服姿の女子がバイクで2人乗りしているなんて、不良だとか非行少年だとか最近の若者はとか思われるのかもしれない。

 でも違う。そんなんじゃない。ただ必死なんだ。辛い毎日を生きていくために、自分自身を守ることで精一杯。それ以外のことを考える余裕なんてこれっぽっちもなくて、周りからは変に見えるのかもしれない。それならいい。それでもいい。変だと思われてもいい。だから少しだけ、時間をください。私たちが大人になるのに必要な、静かな時間を。

 20分ほど走って、鈴木さんはバイクを止めた。そこは山のふもとで、よくあるハイキングコースの出発点みたいな場所だった。駐車場と車道の間の植木の中に、頂上までの道のりを書いた地図が立っている。

「夜は人気のデートスポットらしいよ?」

 何で見たのか、鈴木さんはそんなことを言った。

 山と言っても道は開けていて、石の階段が続いていた。これなら確かに、デートでも来やすいのかもしれない。

 私も鈴木さんも靴はローファーでなくスニーカーだったので、10分もせずに頂上まで上れた。そこはちょっとした広場になっていて、自動販売機やベンチが置かれていた。ちょうど人のお腹くらいまでの植木が柵の代わりに植えられ、その向こうには夕方の街が遠くまで広がっていた。

「いい景色だね」

「でしょ」

 鈴木さんの寮はどのあたりだろう。私の家の方まで見えるのだろうか。そんなことを話しながら、2人でしばらく街を眺めていた。

「大学生になる前に、同じ制服着たかったんだ」

 鈴木さんがぽつりと言った。

「私も……一緒に卒業したみたい」

 嬉しい。歳が違うのも、学校が違うのも関係なかった。

「ふふ、ありがと」

 そう言って笑った顔は、アカネさんでも鈴木さんでもなくて、ああ、これが本当の茜なんだな、と私は思った。

「茜のおかげで、高校が楽しかった……」

「本当?」

 私の高校生活は、あの校舎で過ごした時間ではなかった。アカネさんと出会い、鈴木さんを知り、そしていま茜と一緒にいる。それらの時間こそが、私にとっての高校生活だった。

 私が頷くと、茜は少し黙ってからこう言った。

「なら……ご褒美が欲しいな」

「え?」

 私が聞き返すと、茜は「メイクしてないから」といってその頬に指で触れた。

「え……あの」

 可南子ってさ、と彼女が口を尖らせる。

「そういうの言葉で言わせたいタイプ?」

「ち、ちがっ」

 なんだ、分かってるんじゃない、と言って笑う彼女の頬に、不意打ちとばかりに唇を押し付けた。

「……っ」

 一瞬のことだったけれど、茜はぴくりと震え、それからこっちを向いた。耳の先が赤くなっていた。

「あ、ありがと」

 明らかに恥ずかしがっているその表情を見て、こっちはそれ以上に恥ずかしくなってくる。

「あ、赤くならないでよ……」

「な、なってないでしょ?」

 なってるよ。見てて恥ずかしくなるくらいに。

 そのとき、私の手に茜の手が触れた。そんな近くに立っていたのだから、当たり前と言えば当たり前で、事故みたいなものだった。なのに、どきっとする暇さえもなく、茜の指が私の指を絡めとった。まるで水滴同士がくっ付くみたいに自然に、そして一瞬のうちに。

「茜……っ」

 彼女は黙ったままだった。そのしっとりとした手に吸い付かれ、そこに全神経が集中したみたいに、私の気持ちは高揚していた。カイロを握っているような不思議な暖かさが全身に広がっていく。

 少し濡れた黒い瞳に見つめられると、息が止まりそうだった。だからなのかどうか分からないけれど、

「私にもして」

 私は、そんな信じられない言葉を口にしていた。

「……いいの?」

 私が黙って頷くと、茜が私の顔に口を寄せる。首筋に息がかかり、私は目をぎゅっと瞑った。その直後、柔らかい感触が頬に触れた。それはすぐには離れず、しばらく私の頬の上を這い回った。

「ちょ……っ、くすぐっ……たっ」

「っぷ、あははは」

 私が思わず声を上げると、茜は笑いながらその唇を離した。

「もう……っ」

 照れ隠しにそんなことを言わなければ、とてもいられなかった。それくらいに、とにかく恥ずかしかった。そして、とにかく嬉しかった。

「あ、ありがと……」

 どういたしまして、と言って茜が笑った。

 一陣の風が吹き抜けて、私たちの髪を揺らした。春の匂いにほんの少し、茜の匂いを感じた気がした。




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