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「隣の美悠ちゃん」
母が鍋をかちゃかちゃさせながら言う。
「んー?」
美悠はマンションの隣室に住んでいる同い年の女の子だ。幼馴染というやつだろうか。
高校からは別の学校に通っているけど、ほとんど毎日顔を合わせていたし、3年になってからは同じ予備校に通っている。
「彼氏できたんだって?」
「……え?」
聞いてない。
予備校からはほとんど毎日一緒に帰ってきている。家まで3、40分かかるのに、そんな話が出たことはなかった。
「聞いてないの?」
その言い方だと、たぶん美悠のお母さん経由で聞いたんだろう。だとすれば本当である可能性が高い。
「……さあ」
椅子に座ったまま膝を抱えて言い放つ。おいしそうな味噌汁の香りも、脱臭されたように感じなくなっていた。
「美悠ちゃんのお母さんが話してたんだけどね、なんでも――」
「べつにいいよ、どうでも」
母の言葉を遮るようにそれだけ言って、乱暴に椅子から降りる。
「なによもう、香里ー?」
自室にかけ込み、台所から追いかけてくる母の言葉を無視してドアを閉めた。ぼふんとベッドに倒れこむ。無意識に、拳を握り締めて奥歯をかみ締めていた。
「美悠……っ」
覚悟はしていた。何年も前から。
むしろ、いままで美悠に彼氏がいなかったことが奇跡に近いぐらいだったのだ。
白い肌、柔らかそうな体、きれいな長い髪、欠点らしい欠点がないじゃないか。もちろん、私が贔屓目に見てるということもあるだろうけれど、男に見せたらきっと10人中7,8人はかわいいと言うだろう。10人中5,6人は告白するかもしれないし、10人中8,9人は――。
「香里ちゃんおまたせー」
私が勝手に考え勝手に興奮しているところへ彼女がやってきた。
ここはターミナル駅のそばにある大手の予備校の前。私と美悠が通っている予備校だ。先に授業が終わった方がここで待っているのが、いつからかルールのようになっていた。
「ううん、今来たとこ」
いま頭の中で考えていたのと同じ、いや、実物はそれよりかわいい。グレーを基調にした制服がよく似合っていて、思わず抱きつきたい衝動に駆られる。
しかし、美悠が可愛ければかわいいほど、昨夜聞いた彼氏の話が気になってしまう。
「帰ろ?」
少し不思議そうにそう言って、私を促した。
「うん」
並んで駅に向かう道を歩き始める。いつもならその日の授業や学校であったことなど、話は尽きない。でも今日はそんな気分になれなかった。
「……どうしたの?」
「え?」
不思議そうな顔をしたままだった美悠が、横から私を覗き込んでくる。顔には出していないつもりだったけど、元気がないのは伝わってしまったようだった。
「ううん、なんでもない」
そう言って前を向く。上の方の、ビルと空の境目辺りを見る。こうすると、不思議と少し落ち着いた。
しかし、
「っ!?」
声にならない、鼻息が爆発したような悲鳴をあげてしまった。
「ちょっ」
美悠の手が私の手を握ってきたのだ。
「な、なにしてんのっ」
その白くて柔らかい手を振り解こうとしたけれど、私の手に絡んだ指は吸い付くように離れない。
「だって香里ちゃんが意地悪言うんだもん」
膨れっ面と笑顔が混じったような変な顔をして抗議の声を上げる。
「べつに言ってないでしょ、なんでもないんだって」
「それが意地悪って言うの。どう見てもなんでもなくないじゃん」
ぐ……。鋭い。いや、十年以上の付き合いになるのだから、私の下手な芝居なんか女子ならお見通しなのも当然だ。
「こ、恋人としなよっこういうことは!」
「じゃあ香里ちゃんと」
美悠はそう言って私の腕にしがみついてきた。
「ちょ、やめっ」
手が!胸が当たるっ!!
冗談でなんだろうけど、美悠にこんなことをされるのはたまったもんじゃない。特に今は、私は我慢ができなくなるけど美悠は本当にふざけてるだけなんだってことが、はっきりしてるんだから。
「もうっ!いるんでしょ彼氏!」
私がそういって無理やり腕を振りほどくと、美悠は目を見開いて立ち止まった。
「なんで……?」
その表情はさっきまでの笑顔が嘘のように固まって動かない。
「お母さんが言ってた。……美悠のお母さんから聞いたって」
笑いながら、そんなの嘘に決まってるじゃん、とか言ってくれないだろうか、という淡い期待があった。けれど、無表情で立ち尽くした美悠を見れば分かってしまう。それが本当なのだと。
美悠には彼氏がいるのだと。
***
ガコンという音がして缶が落ちる。
手探りでそれを取り出してフタを開けた。プシュッという炭酸の抜ける音とともに少し甘い匂いが漂う。
コーラを飲みながら暗くなった住宅街をぶらついた。炭酸飲料の刺激が、頭の中からどうでもいいことを追い出してくれる気がする。本当はお酒が飲みたいけれど、さすがに外では無理だろう。
マンションから10分ほどの公園に向かった。住宅地によくある中規模の公園で、子連れのお母さんから小中学生、お年寄りまで、時間帯によっていろんな目的で使われている。もちろん今は夜なので誰もいない。
と、思ったものの、近づくにつれて小さな話し声が聞こえてきた。どうやら誰かいるらしい。まあそれも珍しいことじゃないけど。まだ暖かい時期だし、電話をする人やカップルなんかが夜のベンチに座ってることも多い。
電話の声じゃなさそうだ。男の声があまり聞こえないけどたぶんカップルだろう。ブランコにでも座りたかったけど、仕方ない。私は公園の手前で曲がって別の道を戻ることにした。
「……なの」
「…から、……だろ」
「それは……」
話し声がはっきり聞こえるようになってくる。Uターンして戻ればよかったなと思ったときだった。
「……でしょっ」
女の方が少し大きな声を出した。その声が……。
美悠……?
似ていた。意識して聞くとなおさらそう聞こえる。
早く立ち去ろう、そう思いながら、私は声の主を見ずにいられなかった。見て、それが美悠でないことを確認したい。夜の公園で男と会ってるわけなんかないんだと。
いまはちょうど二人の真後ろ辺りだろうから、ベンチを横方向から見られる場所に見当をつけて早足で歩く。15メートルほどの距離だけど、こちら側のほうが暗いので気づかれる事はないだろう。
少し離れた茂みの影から顔を出して覗いて見えたのは、美悠だった。
制服姿のままでベンチに座った美悠の肩に男の手が乗っている。男の顔は美悠の奥でほとんど見えないが、どうでもよかった。
分かってはいたが、この目で見るとショックは大きかった。美悠はあの一緒にいる男のことが、好きなのだ。
エレベーターに乗ったときのような気持ちの悪い脱力感を感じた。嫌な汗が上半身のいたるところから噴出すのを感じる。吐きそう。私はほとんど四つんばいになりながらその場を離れた。
家に戻り、流しにコーラの残りを捨てた。もったいないけど、とても残りを飲む気分になれなかった。褐色の液体がシンクに当たって泡を出しながら流れ落ちていく。缶は流しの横の袋に入れた。そこまでは律儀にやった。
部屋に戻ってベッドに倒れこむと、涙が溢れてきた。ボフンとベッドを叩く。
「くっそぉ……ぉ……っ」
その汚い言葉が誰に対してのものなのか、自分でも分からなかった。美悠を奪った男に対してか、何もできない自分に対してか。
「あそこに……いることないじゃない……っ」
美悠とよく一緒に過ごした公園。子供の頃は一緒に遊び、中学生になってからは学校帰りにベンチでだべったりした。その場所に、美悠が男を連れ込んだことが悔しくて仕方なかった。
「あぁぉぉぉぉ……っ」
ベッドに顔を押し付けて、気が狂ったような声を上げた。両親がいなくてよかった。いたら本当におかしくなったと思われてしまうかもしれない。
布団を叩いたり、シーツを引っ掻いたり、ベッドボードを蹴飛ばしたり。しばらくそうして泣き喚いた私は、体力を使い果たして動けなくなっていた。
「……私のこと避けてるでしょ」
美悠が言った。
あれから私は予備校を1週間休み、学校でも上の空だった。それでも受験生という立場を無視できないくらいには、私は現代社会に染まっていた。
授業が終わって黙って帰ろうとした私に、待ち構えていた美悠が飛び掛ってきた。
「……べつに」
「嘘つかないで」
黙ってすり抜けようとした私の腕を掴んで、そのままついてくる。
「言ってよ、彼のことでしょ」
彼、という言葉も気に入らなかった。なんだかひどく親しげに感じられて、ギリギリで押さえつけていた私の自分勝手さがむき出しになる。
「知らないよ!彼氏と仲良くしてればいいでしょっ?」
「何それ、意味わかんないよ!」
通行人がチラチラと視線を飛ばしてくるが、もうそんな事に構う余裕はなかった。
「黙ってるつもりだったんでしょ?なら私が何思っても関係ないじゃんっ!」
「違う!言うつもりだったのっ!だけど――」
可愛さ余ってナントカというのはまさにこういう状態かもしれない。
「べつに美悠が誰と付き合っても関係ないっ!」
「だから付き合うつもりじゃなかったのっ!」
美悠に対して持っていたプラスの気持ちが、美悠を傷つける言葉に変わってしまう。
「公園でイチャついてたくせに!最低!!」
美悠は息を飲んで立ち止まった。
「……見てたの?」
黒い瞳が私を睨みつける。暗いから分からなかったのだ、その目に溢れそうなほど涙が滲んでいることに。
「何が付き合うつもりじゃなったのよ!肩抱かれてたくせに!」
「バカ!!!」
こんなに大きな美悠の声は聞いたことがない、その声と一緒に、
パンッ
という音がした。それが平手打ちの音だと気づいたときには、美悠は身を翻して走り去った後だった。
不思議な事に、叩かれたはずの頬はまったく痛くなかった。より強い痛みがあると弱い痛みは感じなくなるのだという。私はそこからどうやって帰宅したのかすら覚えていなかった。
***
「ちょっと、ねえ、大丈夫?」
気が付くと午前の授業は終わっていて、皆お弁当を食べている。目の前の席に友人の曜子が座っていた。
「あれ……もうお昼?」
「そ。」
曜子は持っていた袋を破いてパンを取り出した。デニッシュの甘ったるい匂いがあたりに漂う。
「香里、ここんとこボーっとしてるけどさ」
曜子はパンをかじりながら言った。
「今日は一段とひどいよ?何かあったの?」
あったはあったけど、全面的に自分が悪い上に、友達に話せることではなかった。
「余計なお世話かもしれないんだけどさ」
私が黙っていると、曜子は少しボリュームを下げた声で言った。
「もしかして、中学のときの美悠ちゃんのことなんじゃないの?」
食事をしていなくてよかった。していたら口から噴出していただろう。
「な、なんで……?」
曜子は中学からの友達だから、当然同じ中学だった美悠のことも知っている。でも今の美悠のことや、私と美悠のケンカのことなんか知らないはずだ。
「やっぱそうか」
否定できなかった。もろに動揺してしまったし、そうですと言ったのと同じだろう。
「いや、友達に美悠ちゃんと同じ学校の子がいるのよ」
そうか、それは普通にありうる。
「でね、その子も同じ中学の子なのよ、香里たぶん知らないけど」
つまり、私と曜子、美悠とその子という同じ中学同士の情報を、曜子とその子がやりとりしているということらしい。私と美悠はそんな話をしたことがなかったけど、たぶん私がその子を知らないからだろう。
「ケンカしてるんだって?」
筒抜けだ。美悠はその子にどこまで話しているんだろうか。
「ケンカ……っていうか、私が勝手なだけだから……」
ぼそっと言い放つ。言葉にしてみて、改めて自分の身勝手さが嫌になる。
「そう思ってるなら謝ってあげればいいじゃん、すごい落ち込んでるってよ美悠ちゃん」
美悠が。そうなんだ……。
彼氏ができても、私は私で大事に思ってくれているのだろうか。そう考えると目頭が熱くなる。
「でも……」
私が曖昧な返事をすると、曜子は少し間を置いてから言った。
「彼氏のこと?」
どうしてそこまで知ってるんだろうかこの人は……。
まあでも、よく考えれば彼氏の情報は先にあったんだろう。特に美悠とその子の間では、それこそいろんな相談やアドバイスがあったのかもしれない。
それが曜子に流れ、さらにその後に私とのケンカの情報が入ったとすれば、原因が美悠の彼氏にあるのは普通に想像できる。
「……まあ」
私は小さくうなった。その話をこれ以上するのは避けたかった。
「そのことだけどさ」
けれど曜子はそこを突っ込んでくる。
「香里、美悠ちゃんのことどう思ってるの?」
「どう……って?」
意外な質問に、思わずおうむ返しに聞いてしまう。彼氏をどう思うかじゃなくて、美悠を、なのか……。
「うんと、なんて言えばいいのかな……」
曜子が少し考えるような顔をした。言いたいことははっきりしているが、言葉を選んでいる、そんな感じだった。
「違ったらごめんね」
曜子はそう言ってから周りを見まわした。私はドキリとした。まさか……。
「香里さ、美悠ちゃんのこと好きなんじゃないの」
悪いことがばれた子供のような気分になる。まさか、それを聞かれるとは思っていなかった。
私自身の心の中でさえ、それをはっきりに言葉にするのを避けてきた。当然だ、女同士なんだから。少しでも感づかれたら、気持ち悪いと引かれるかもしれない。美悠にそう思われることは、想像しただけでも耐えられなかった。
なのに、どうして……。
「そうなんだね?」
確認するように繰り返す。
「ち、違……」
咄嗟に椅子を引いて距離をとろうとした。
しかし曜子の手が、私の手首を掴んだ。
「ほんとのこと言って、香里」
曜子のこんな真面目な顔は見たことがない。彼女は少なくとも、からかったり気持ち悪がったりしているのではない。真面目に聞いているのだ。そして私の答えは、そのまま美悠の耳にも入ってしまうかもしれないのだ。
私はなんて答えればいい?
「……美悠には言わないで」
結局、それは一つしかない。
「言わないよ」
曜子が食べかけのパンの袋を隅へ押しやった。
「その友達にもよ」
私も一度、周りを見回す。クラスメイトはそれぞれがおしゃべりに夢中になっている。
「分かった。香里の許可がない限りは言わない」
そう言って黙って私を見た。
もうごまかせない。ごまかしたくない。本当は口に出したかった。かなわないとしても。
私は、美悠のことが……。
「好き」
小さく、息を吐き出すようにその言葉が漏れた。いままで一度も声に出したことはなかった言葉が。
曜子がフッと小さく微笑んだ気がした。
「ずっと好きなの……」
繰り返した言葉と一緒に、涙が溢れた。曜子の手が私の頭を抱き寄せ、自分の肩に乗せた。
「我慢してたんだね」
曜子は小さな声でそう言って、頭を撫でてくれた。美悠はもちろん、曜子にも秘密にしてきた。こんなふうに私の想いを認めてくれるなんて思っていなかったから。
嬉しかった。べつにこれで想いがかなうわけじゃないけれど、美悠を好きでいていいんだと、初めて思えた。
それと同時に、何も言わずに抱きしめてくれる友人の存在が、こんなに嬉しく思えたことも、今までなかった。
***
「ケンカしたんだって?美悠ちゃんと」
母のこのセリフを聞いたのは久しぶりだった。
昔から、美悠とケンカをする度に言われてきたけど、高校生になってからは聞いた記憶がない。昔よりも一緒にいる時間が減ったせいもあるだろう。貴重な時間をケンカで潰したくはなかった。
それなのに私は……。
「……」
「ずいぶん落ち込んでるみたいよ?」
曜子に話を聞いてもらってから1週間。気持ちはだいぶ落ち着いていたけれど、まだ美悠に謝ることができないでいた。
謝ったら、きっと美悠は許してくれるだろう。そして以前のように笑って接してくれるだろう。でも、私はどうすればいいのか。どんな気持ちで美悠と付き合えばいいのか分からなかった。
「これね、お父さんが会社からもらってきたんだけど……」
母はそう言って、コルクボードに留めてある紙切れを指差した。
「なに?」
「温泉のチケットだって」
立ち上がって横になった文字を読んでみる。○○温泉ペア招待券。
「美悠ちゃんと行ってきたら?」
「は……?」
まったく想像していなかった母の言葉に、思わず上品でない反応を返してしまう。
「だってペアって男女で行くもんでしょ?」
ペアチケットというものを使った事がないし、それを使っている場面を見たこともないので根拠はないけど、そういうものだと勝手に思っていた。
「べつにそんなの決まってないわよ」
私の言葉に、母は少しおかしそうに笑った。
「旅館からすれば、お客さんが2人来ることが重要なんだから」
もっともな話だ。
「だってタダなんだから2人来ることにならないじゃん」
言いながら、もうそれがどうでもいいことなのは分かっていた。なんだかんだと美悠を誘わないですむ言い訳をしている自分が情けない。
「とにかく女同士でも男同士でも平気。会社の人も娘さん2人が使ったそうだから」
「……」
これで美悠を誘えない理由はなくなってしまった。
後は誘うのか、誘わないのか、どっちかしかない。
「使わないなら返してね、行けたらお父さんと行くから」
熱海へ向かう電車は空いていた。海水浴のシーズンが終わったせいだろうか。日曜日の午後という、中途半端な時刻のせいかもしれない。
ちらりと美悠に目をやる。私服姿の彼女を見るのは久しぶりだけど、淡い色のワンピースがかわいい。なんとなくズボンが多かったイメージがあるけど、彼氏ができて女っぽい服装をするようになったのだろうか。
いや、いけない……。
彼氏のことをマイナスに考えるのはやめよう。せっかく美悠が誘いに応じてくれたのに、また嫉妬して子供じみた言動をとるのは絶対に避けたい。
「ん?」
私の視線に気づいてか、美悠がこっちを向いて首をかしげた。
「ううん、ワンピースがかわいいなと思っただけ」
「これ?」
私が言うと、美悠は下を見てワンピースの生地をつまみあげた。太ももの際どいところまでが一瞬だけ見えた。
「ちょっと、見えるよそんな持ち方したら」
「へへ」
手を離し、脚に沿うように生地を払って整えた。
「珍しいね、美悠のそういう格好」
「あ、ズボンが多いからね」
やっぱりそうか。スカート姿の美悠というのは制服以外ではあまり見た記憶がない。
「なんで今日はそういうのなの?」
「ん、……こっちの方が涼しいかなと思って」
確かにジーンズの私よりはどう見ても涼しげだ。とは言っても、もう九月も終わりに近い。ジーンズでもそれほど暑くない気温だった。
そう、もう十月なんだ。受験まで半年もない。大学生になったら、美悠と過ごせる時間はきっといまより短くなる。お互い東京の大学を受けるから、遠くに離れてしまう事はないだろうけど、マンションの廊下でたまにすれ違うくらいになるのかもしれない。そう思うと寂しくてたまらなかった。
「ねえ」
それを紛らわそうと、口を開いた。
「彼氏とは、どんな感じ?」
ずるい聞き方だなと思った。言いにくい言葉を使わないで、相手には言いにくいことを言わせようとしている。
「どんな、って……?」
美悠も答えづらいらしく、そう聞き返してきた。私はできるだけ冷静になろうとしながら言葉を探した。
「だから、その……上手くいってるとか」
美悠は黙って窓の外を見ていたけど、急にこっちを向いて言った。
「香里ちゃんは」
「え?」
一度閉じられた唇が、もう一度小さく開く。
「香里ちゃんは、どっちだといいと思うの?」
なんだそれ……。
そんなの決まってる。上手くいってない方がいいに決まってる。だけどもちろんそんなことは言えない。美悠が何を意図して聞いているのか分からなかった。
「どっちって?」
彼女の心中を探るように、曖昧に聞き返す。もっと続きを聞かないとなんとも答えられなかった。
「私が……上手くいってる方がいいの?」
黒い瞳が私をじっと見る。その目を見続けられなくて目を逸らす。
「そんなの……」
言えるわけない。
「普通は……そうでしょ」
特別思うところがないのなら、友人の恋が上手くいくのは喜ばしいことだろう。
「普通じゃなくて香里ちゃんは?」
少しずつ逃げ道を塞ぐように、美悠の言葉が私に何かを言わせようとしてくる。上手く行かない方がいいと言わせたいのだろうか。何のために?その理由を聞くため?
理由を聞いてどうするの美悠……。
何も答えられないまま、電車は熱海駅に到着した。
動かざるを得ないのをいいことに、私は旅館への行き方を調べたりすることで、そのやりとりから逃げ出した。
***
夕食後、美悠はお土産を見たいと言ってロビーに下りていった。一緒に行こうかと言ったけど、少し覗くだけだからと走って行ってしまった。
やっぱりまだ怒ってるのかな。そりゃそうか、さっきの会話だって結局うやむやだし、私が美悠を怒らせることばかりしてるんだ……。
ため息をついて窓際の椅子に埋もれると、鞄の中で携帯が鳴った。電話の音だったので一応手に取ると、曜子からだった。
「……もしもし?」
「ああもしもし、香里?」
電話の向こうから曜子ののんきな声が聞こえてくる。悪いけどいまは曜子のおしゃべりに付き合っている時間はない。美悠の前で他の人と電話をするのは嫌だった。
「あのさ、私いま――」
「分かってる。どう?デートの方は」
一瞬何の事か分からなかった。ひょっとして別の誰かと間違えてかけてるんじゃないかと、本気で言いかけたときだ
「美悠ちゃんと出かけてるんでしょ?」
曜子のその言葉で、ようやくそれが私と美悠の旅行のことだと理解できた。
「デ、デートなわけないでしょ!ていうかなんで知ってるの!」
「だから友達から聞いたんだってば」
さらりと言う。美悠は旅行のこともその友人に話していたらしい。いったいどこまで自分たちのことを人に話しているんだろうか。べつに聞かれてまずいことってわけじゃないけど、あまり人に自分のことを話さない私には理解しがたい部分だった。
「ごめん、でね、香里に一つだけ伝えたい事があったの」
それを言う間に、曜子の声から笑った感じが消えていった。
「なに、美悠が戻ってきたら切るよ」
「うん、すぐ終わる」
曜子はそこで言葉を切って、一呼吸置いた。
「美悠ちゃんさ、気付いてるよ、香里の気持ちに」
な、なんて言ったの?
……気付いてる?私の気持ちに?
心臓の鼓動が、急にはっきり感じられる。
「わ、私の気持ちって……?」
「香里が美悠ちゃんを好きだってことよ」
う、嘘……。そんなはずがない。
「い、いつから?」
美悠の態度が途中で変わった時期というのは思い当たらない。もちろん私が気付かなかっただけかもしれないけど……。
「それは自分で聞きなよ」
曜子は短く言った。
自分で聞けって、それを聞くというのはつまり、美悠に告白しろっていうのと同じことだ。そんなの……。
「美悠ちゃんの気持ちは私は分かんないよ、でもさ」
曜子はこの間教室で話したときのような、穏やかな口調で言った。
「少なくとも、香里の気持ちを聞いて引いたりは絶対しないはずだよ」
いちばん心配してたのはそれでしょ、と曜子は言った。
確かにそう……。美悠に気持ちを伝えられなかったのは、引かれるのが怖かったから。曜子の話が本当なら、美悠は私の気持ちを知っても私と仲良くしてくれていたことになる。
「でも、彼氏がいるんでしょ、いまは」
そう、美悠には恋人がいる。私の気持ちに引かないでいてくれるならすごく嬉しいけど、それを伝えられないのは結局同じだ。
「……それも自分で聞きなよ」
「あ、それからもう一つ――」
何を聞くっていうのか。それはいまの時点で確かなことだ。上手くいってるのかどうかは分からないにしても……。
「わ、広ーい」
温泉宿だけあり、浴場はかなり広かった。時間が遅いせいか、私達二人しかいない。曇った窓の向こうに町の明かりが見えた。
「あ、ちょうどいい」
お湯を桶ですくって体にかける。熱すぎるお湯は苦手の私でも入れそうな、ちょうどいい湯加減だった。
「ほんとだ」
美悠も隣でかけ湯をする。タオルの取り去られた裸体から目を逸らす。水着は何度か見たことがあったけど、それも中学生のときだ。石床の上の白い身体は、そのときとは比べ物にならないほどのボリュームを持っていた。
並んでお湯に浸かりながら、私は考えていた。言うとしたら、今夜しかないんだ。今日言わなかったら、きっともう言えない。そんな気がした。
キュキュっという音がして、何かと思ったら美悠が手で窓をこすっていた。
「夜景がきれい」
私も隣の窓をこすり、外を覗く。そんなに遠くまで見えるわけではないけれど、川沿いに、そして海岸沿いに明かりが続いている。
「ほんとだ、きれい」
そう言いながらも、私の頭は景色のことなんか考えていなかった。
ちらりと横を見る。美悠の横顔がすぐ近くにあった。
決めた、言おう。かなわないかもしれない、きっとそうだろう。それでももう、我慢できなかった。こんなに好きな相手に気持ちを伝えなかったら、きっと後悔する。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「み、みゅーっ」
緊張のあまり、美悠と呼ぶつもりが猫の鳴き真似みたいになる。
「え?」
それでも、その声は美悠の注意を私に向けさせるという役割は果たした。
「あの、ちょっと言いたいことが……」
私の喉がまたごくりと動く。美悠は黙って続きの言葉を待っていた。
けれどそのとき、ガラララっと入り口のドアが開いた。驚いて目をやると、二人組の女性が入ってきた。
なんていうタイミングの悪さ! あと5分、いや1分待ってくれれば言えたかもしれないのに……! 八つ当たりだ。あれから言う機会は何度もあった。その度に理由をつけて先延ばしにしてきた自分のせいだ。美悠も話が中断されたのは感じたらしく、続きを聞いてはこなかった。
結局、言えないまま一日が終わろうとしていた。明日はもう帰るだけだし、旅館を出てしまえばゆっくり話をする時間はないだろう。
美悠が窓際に立って外を見ている。寝巻きの背中に、まだ少し湿った髪が垂れていた。曜子の言葉を思い出す。
『もう一つだけ、美悠ちゃんさ、中学からずっと髪長いままでしょ』
『あれ、香里に褒められたからだって知ってた?』
確かに、美悠の髪を褒めたことはあった。実際すごいきれいだし。
けれど、それはアドバイスとして受け取っているんじゃないだろうか。誰だって似合わないより似合う髪型でいたいから、人から褒められた髪型を保つのはそれほど特別なこととは思えない。
あああ、もう!関係ないんだ、そんなの。美悠がそれをどう受け取っていたっていいじゃないか。そう、ただそれをきっかけにすればいい。
「美悠」
聞こえるかどうかというほどの小さい声だったのに、美悠はこっちを振り向いた。
「ん?」
髪と同じ、真っ黒い瞳が私を見る。
「美悠さ、髪きれいだよね」
唐突過ぎたかなと思ったけど、言ってしまったんだから後の祭りだ。それにいまはこれが言いたいことそのものじゃない。
「ふふ、ありがと」
美悠はくすっという表現がぴったり当てはまるような笑い方をした。
「香里ちゃんもきれいだよ」
「私のはべつに……」
言いながら、肩の上で跳ねている自分の髪を弄る。
美悠ほど長くもないし、どっちかといえばくせっ毛だ。
「……私は好き、香里ちゃんの髪」
ドキンと心臓の音を感じた。違う、髪の話だから……髪の……。私は震える両手を握りしめて落ち着こうとした。
でももう……。
さっきまであんなに聞こえていた虫の声がぴたりと止んでしまったように感じる。
「わ、私も好き……美悠の髪も……」
ここまできたら……もう、出ちゃう。
「……美悠」
ずっと我慢してきた気持ちが、もう抑えられない……。
「好きなの……」
「……え?」
美悠の目が大きく見開かれる。そこに写った私は、きっと情けない顔をしてるかもしれない。
「美悠が好き……」
声がひどく震えているのが自分でも分かった。
ああ、ついに言えた……。言ってしまった……。美悠はどんな気持ちで私の言葉を聞いたんだろう。でも良かった、言えてほんとに良かった……。
壁にかかった時計の針が動く音だけが、規則正しく部屋の中に響いていた。美悠の口が開かれるまでの時間は数秒だっただろうけど、それはもっとずっと引き延ばされて感じられた。
「……ほんと?」
美悠はぽそりと言った。
その表情からは、心中を読み取ることはできない。だけど曜子が言ったとおり、引いたりはしなかったんだ。
「恋愛……っていう意味で……?」
もちろん、とか、女同士だけどとか、言うべきことはたくさんあったのかもしれない。でも私はそれ以上言葉が出てこなくて、ただただ黙って頷いた。
美悠はまた、しばらく黙って立っていた。寝巻きの股の部分で両手が小さく握られている。分かってはいたけど、やっぱりダメなんだろう。そう思ったときだった。
「もお……っ」
突然、駆け寄ってきた美悠が私の身体に抱きついた。その勢いで後ろに倒れそうになるのを、畳に踏ん張って耐える。
「言ってくれないかと思ってた……」
美悠の両手が私の背中に回され、温かい身体が強く押し付けられる。顔は見えないけど声が泣いていて、肩は小刻みに震えていた。
「み、美悠?」
私は恐る恐る、両手で美悠の肩を掴んだ。洋服の上から見て想像するより華奢な肩。女の子の肩ってこんなに小さいんだ。
「ずっと……待ってたんだからっ」
美悠の顔が私の首から肩の辺りに擦り付けられる。
「え……?」
待ってたって……。まさか……そんなはずない。美悠は男の子を好きになる人で……。 そうだ、
「でも、彼氏は……」
私ははっと思い出したことを、絞り出すような声で言った。
あの男の存在が、美悠が普通の女の子だということを証明している。
美悠は少し頭を浮かせ、だから、と呻いた。
「彼氏じゃないって言ったじゃん……っ」
美悠は首を振った。その動きで2人の身体がぐらぐらと揺れる。
「そんなこと……」
言ってなかった。だって周りの人たちも「彼氏」と言っていた。美悠自身も「彼」と言ってたじゃないか。それに……
「言ったよ……っ、付き合うつもりはないって……っ」
「だって公園で……」
そう、あの夜美悠は、男とくっついて座ってた。人気のない公園で、肩を抱かれて。恋人同士の間の雰囲気がどんなものか分からないけど、それでもあれは友人とか知り合いとかいう雰囲気とは思えなかった。
「だから……」
美悠は私の肩を掴んで、身体を離してもう一度自分一人で立った。寝巻きの袖でごしごしと顔を擦っている。
「説明しようとしたのに、香里ちゃん聞いてくれなかったじゃん」
濡れて光を強く反射する瞳に、私の視線は縫い留められたみたいに逸らせない。
「あ、ああ……」
そういえば、公園で二人を目撃した後、美悠の言葉を遮って聞かなかった気がする。あのときの自分の振る舞いが恥ずかしい。時間の流れの中から、あの日だけをくしゃっと丸めて捨ててしまいたいけれど、もちろんそんなことはできない。
「告白されたの」
ぽつりとそう言った。あの男からという意味だろう。もてるんだろうな、とどうでもいいことを今更ながらに思う。
「無理だって言ったら、一日だけデートしたらあきらめるって言うから」
一瞬だけ視線を外したのを見て、美悠が後悔しているのだと感じた。
「それが、あの日だったの……?」
美悠は頷いた。
そうだったのか。デートだったんだから、カップルっぽい雰囲気だったのも当然だったんだ。彼女を忘れたくてぶらついていた夜に、偶然本人を目撃してしまうなんて、なんてタイミングが悪いんだろう。
「でも、みんな彼氏って……」
「それは誤解……曜子ちゃんと美佳ちゃんの」
美佳ちゃんというのが、曜子が言っていた同じ中学からの友人だろう。そういえば、さっきの電話での曜子は、事実を知っているような口ぶりだった。もうその誤解は解けているようだ。
「それがうちのお母さんにも伝わっちゃって……」
そうか、母親同士の会話だから、余計に誤解がそのままになってしまったのかもしれない。それが私の耳にもそのまま入ってしまったんだ。
美悠はいったん口を閉じて視線を外した。
「私が曖昧に言ってたのがいけなかったの」
そしてまた私を見た。
「何を?」
その男との関係をだろうか?
しかし、美悠はしばらく黙って私を見つめた後で、その黒い目を少しだけ伏せてこう言った。
「……香里ちゃんを好きだってこと」
濡れ髪から覗く耳の先が、真っ赤になっている。
「っ!!」
ぞわっと鳥肌が立ちそうなほどの寒気と、頭が沸騰しそうなほどの熱気が合わせて襲ってきて、貧血みたいな感じになる。
な、なにコレ……っ。
咄嗟に美悠の身体を掴んで、倒れそうになる身体を支えた。
「香里ちゃんっ? 大丈夫っ? 香里ちゃんっ!!」
泣き叫ぶような美悠の声が聞こえるけど、それもだんだん小さくなっていった。
***
「それで、美悠ちゃんに告白されて気絶しちゃったわけ?」
「よっぽど感激しちゃったんですね」
アハハハと、黄色い笑い声が夕暮れの住宅街に響く。
「笑いごとじゃないでしょ!すっごい心配だったんだから!」
美悠は真っ赤な顔をして、曜子と美佳ちゃんの二人を怒鳴りつけている。私はといえば、同じく真っ赤になったまま何も言えなかった。
「じゃあ何もなかったのね、その夜は」
ブフッという音がして、美悠が飲んでいたお茶を噴出した。
「あ、ちょ、汚いですっ」
美佳ちゃんが両手を挙げて顔をガードする。
「あ、あるわけないでしょ……もうっ」
普段おっとりしている美悠だけど、恥ずかしいところを弄られるとこんなうろたえ方をするんだ……。ちょっと自分でも意地悪してみたい気分になってしまう。将来の楽しみの一つにしておこうかな。
「まあ、それで真面目な話、香里は大丈夫だったの?」
曜子が苦笑いしていた顔を無理やり元に戻して言った。
「うん、のぼせとストレスだろうって」
あの後、一応病院に行って見てもらったところ、あっさりとそう言われた。正確には、その数日前まで生理だったことも原因になったらしい。
「のぼせって……」
「あ、お風呂。美悠のせいじゃなくて……」
私は普通に説明したつもりだったけど、美悠はまた真っ赤になって俯いてしまった。
「わ、私はべつに……っ」
それを見た私も、自分の言葉を顧みて顔が熱くなる。まあ、もちろん美悠にものぼせてたとは思うけど……。
「はいはい、痴話げんかは帰ってやってよ」
「私達の前ではデレデレ禁止です」
二人はそう言うと、十字路のところで立ち止まる。
「んじゃ、またね」
曜子が手を軽く上げて言う。みんな同じ町内だけど、ここで曜子と別れるのは中学のときからのお決まりだった。
「それじゃ、香里さん。また学校でね美悠」
美佳ちゃんもそっちの方向らしく、曜子と肩を並べて帰っていった。しばらくその場に立ち止まったまま、二人の後姿を見送った。
「行こっか」
「……うん」
私が手を出すと、美悠がそれを握り返した。柔らかい手の感触が、とても優しい気持ちにさせてくれる。
「そうだ、……これ」
美悠が鞄から小さな紙袋を取り出した。
「旅館で買ったの。……よかったらあげる」
「え、なに?見ていい?」
出てきたのは金属でできた小さなチャームだった。
「あんまり温泉と関係ないけど」
確かに関係ないけど、関係ない方が使い道は広そうだ。
「ううんありがとう!美悠も何か買ったの?」
私が聞くと、美悠はまたちょっと目を伏せた。恥ずかしいときの彼女の癖らしい。
「買ったよ。その形好きだったから」
きゅんとする、というのはこういうことを言うのかもしれない。同じものを持ちたいとか、そういう欲求はあまりない私だけど、嬉しいものは嬉しい。
私は美悠の腕を引っ張って抱き寄せた。
「え、ちょっ」
そして柔らかそうな頬っぺたに、軽く唇で触れた。
「ありがと」
秋の夕日が横から差して、町をオレンジ色に染めていた。風が吹いて、遠くの電車の音が聞こえてくる。
美悠はブラウスを引っ張ると、黙って私の頬に口をつけた。
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