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「あー、寒かったーっ」
コオリノガーデンから戻ってきた私達は、1時間ぶりに温暖なギランの街の広場に立っていた。
フブキの長老さんが言うとおり、あそこは人間が長時間いられる場所じゃない。鎧の下には、寒冷地仕様の起毛した肌着を着けていたけど、おそらく服装の問題じゃないんだろうと思う。
「竜子はそんな水着みたいな格好してるからよ」
隣に立った幻子が少し意地悪そうに言った。
ドラゴンナイトの格好は肌の露出が多いのは認めるけど、これは覚醒状態になったときに都合が良いためなんだから仕方ない。そもそも、そういう幻子の、ごくごく平均的なイリュージョニストの格好だって、胸を無理やり入れたらお腹まで裂けちゃいましたという感じの、お世辞にも露出が少ないとは言えない格好だ。
「格好のせいじゃないって。長老さん言ってたじゃん、魔法か何かかかってるんだよ」
幻子はそれには答えなかったけど、唇は少し紫色をしていたし、体が冷え切っているのはたぶん間違いない。
まったく素直じゃないんだから。あんなところに1時間もいたんだから、街に戻ってきたってすぐに体温は戻らない。
このままじゃ風邪を引きそうなので、宿の大浴場でお湯に浸かることを提案してみる。ギランの宿には各フロアのシャワー室とは別に、2階に共同の浴室があって、夏でもお湯に浸かれるのだ。寒い地域へ狩りに出かけた人に向けたサービスなんだと思うけど、コオリマップのせいで今月は利用者が多そうだ。
「いいけど、もうやっているの?まだ4時だけど……」
確か、浴場は午後4時からだったと思う。それから深夜まで入れたような気がする……けど、私も使わないから、あんまり自信はない。
「見に行ってみよ。入れたら、混まないうちに入っちゃおうよ」
幻子もこれには異存はないようで、幻子がテレポーターで着替えを取ってくる間に私が様子を見てくることになり、約十分後、私たちは揃って大浴場のお湯に浸かっていたのだった。
「うわあ、一番のりって私初めて」
開いたばかりの浴場には、私達二人以外にまだ誰もおらず、ゆったりとした気分で冷えた体を暖めることができた。特に幻子は人ごみが嫌いだから、混雑した浴場というのはすごく嫌がるに違いない。ちょうどいい時間に狩りが終わってよかった。少し離れてお湯に浸かる彼女を見ながらそんなことを思った。
幻子がどんな反応をするかと思って、頭を出したまま平泳ぎをしてみたら、冷たく一言、「子供なの?」と言われてしまった。もっと優しく構ってくれたっていいのに。
泳ぐのはやめて体を浮かせて腕だけで移動して遊んでいると、スライド式のドアがガララと開いて、見知った顔のエルフが入ってきた。私と同じフロアに部屋を借りている冒険者の、妖子だ。
妖子はすぐにこっちに気がつくと、
「あら、竜子。それに、幻子さんですよね、こんばんは」
と挨拶した。
幻子と妖子は初対面だと思うけど、幻子はすこし微笑んで、こんばんは、と短く返した。なぜ自分を知っているのかとか、そういうのをあんまり気にしないのが彼女らしいと思った。
私は一応双方をそれぞれに紹介し、妖子は軽く体を流してから、お湯の中に入ってきた。
「二人もあそこ行ってたの?コオリの……」
妖子は私達二人の横に少し離れて座るとそう言った。彼女もやっぱり、例のイベントマップから戻ってきて、そのままこの大浴場に直行したらしい。まあ、今はみんなあそこに行ってるんだろうな。
「うん、さっき帰ってきたところ。ね」
「ええ。……寒かったわ」
さっきまでかたくなに寒くない振りをしていた幻子が、私の友人に気を利かせて一言付け加えたのがおかしくて、思わずにやにやしてしまう。
それに気付いた幻子に、冷たい顔で「なに?」と突っ込まれた。頭のいい彼女のこと、私のにやけている理由なんかお見通しで、それが恥ずかしくなったらしい。フンと言わんばかりに顔を背けたりするのがいちいちかわいい。
その様子を見ていた妖子が、ちょっと聞いてもいいですか、と言って少し間をおいた。その言葉遣いからいって、私達二人に関係することなのだろうと思った。私ひとりに聞くなら敬語は使わないから。
「なに?」
妖子は一瞬私から視線を外した。たぶん幻子を見たんだと思う。それから私に視線を戻し、もう一度外した。
「いきなりなんですけど」
「竜子と幻子さんは、お付き合いしてるの?」
「え?」
反射的に聞き返した。
予想していなかったどころか、予想を立てるリストの中にも入っていなかったと思う。質問の意味を一瞬理解できなかったくらいだった。
「……ううん?」
――付き合うっていうのは、あれだよね、恋愛関係にあるのかってことだよね……。女同士の私と幻子が?いったいどうしてそう思うんだろう。
私は幻子の顔を振り返って見たが、ポーカーフェイスの彼女の心情は読み取れない。そして彼女は何も言わなかった。
「……なんで?」
普通、女性二人を前にして、付き合ってるんですかとは聞かない。よっぽど……前もってそういう話を聞いたりとかでない限り、そんな想像はしないし、聞かないだろう。
「あ、違ったらごめんなさい。とっても仲が良さそうに見えたから」
妖子は微笑んでそう答え、失礼なことを聞いてすみませんと幻子に謝った。
幻子は相変わらずの表情でいいえと短く答えたが、少し声に険があったように感じた。
「そろそろ上がるわ」
腰を上げる幻子のしぐさも、特にいつもと変わりはなかったのに、その顔が私のほうに向けられていないことで、幻子の気持ちがなんとなく分かってしまった。
体は十分温まっていたし、幻子のことが気になっていなかったとしても、ごく自然なこととして私も一緒に上がったと思う。
更衣室へ出ると、一緒に出なくてもいいのに、と笑われた。それはいつもの彼女の雰囲気だったからほっとしたのと同時に、幻子が妖子に対してあまり言い印象を持たなかったことが余計にはっきりと分かってしまった。
「ごめん、あんなこと聞かれて、嫌だった……?」
「さあ、どうかしら」
幻子がこっちに顔を向かずにそう答えた。頬の形で笑いながら言っているんだと分かったけど、その真意は分からなかった。
「でも、竜子が謝ることじゃないわ」
「けど……」
妖子は一応私の友達だし、友達の失礼を詫びるのは普通のことだ。
それに幻子一人なら、妖子に会ってもあんな質問はされなかっただろうし、私の責任はやっぱりある。
――いや、……でも、妖子はもしかして、幻子が一人でも、あの質問をしていたのかもしれない。そんな気がしてくる。
彼女が何を考えているのかよく分からなかった。
「お茶でも飲んでいかない?」
着替えをすませ、更衣室を出たところで言ってみた。
なんとなく、分かれるときの気分としては、二人ともいまいちだったと思ったからだ。お茶でも飲んで、少しおしゃべりしてから分かれたほうが、気分よく眠れそう。それだけだったんだけど――。
「ごめん、今日はやめておくわ」
あんなこと言われた後だと意識しちゃうから、と笑いながら言った。
冗談だろうけど、幻子は私とは逆に、離れることで二人の気分を整えようとしてくれているのかもしれない。彼女なら、そういうやり方を好みそうだと思う。
宿のフロントまで一緒に行ってから幻子と別れた。
部屋に戻ると、洗濯物をカゴに放り込み、毛皮やベルトの類はテーブルの上に置いた。鎧やブーツは戸棚の横に置く。窓の外にかかっていた洗濯物を取り込み、軽く畳んでこれもテーブルの上に。
ひととおり終えてから、部屋の隅に立ってやることが残っていないか確認した。うん、大丈夫だ。
髪を軽く梳かして愛用のヘアバンドをはめ、時計を見ると午後5時だった。少し早いけど、夕食を食べに1階へ行くことにした。
宿のフロントの左奥にある酒場兼食堂スペースは空いていた。
私はカウンターでいくつか料理を注文してから、グラスに水をくみ、窓際の席に腰を下ろした。賑やかな十字架広場が見渡せるこの席は私のお気に入りだ。ちょうど、広場に戻ってくる冒険者が増えてくる時間。道行く冒険者を眺めるのはとても楽しい。どうして、人の流れっていうのは、こんなに見ていて飽きないんだろう。
そういえば、この席に幻子と一緒に座ったことはなかったっけ。幻子は人なんか見てもつまらないわとかいいそうだけど、夕暮れの広場を眺めながら一緒にご飯を食べるっていうのも悪くないと思った。今度誘ってみようかな。
「竜子、ここ座ってもいい?」
そんなことを考えていると――。
女性の声がして、広場から室内へ視線を戻すと、お盆にいくつか料理を乗せた妖子が立っていた。こちらの答えを待たずに、私の向かいの席に座る。
いつものことだけど、妖子は少し自分中心なところがあると思う。もちろん悪気はないと思うし、許せないほどのものじゃないけど。人間なんてみんなそうだと思うし、私のことを自己中な奴だと思ってる人も、きっといるだろう。
でも、これは言っておかないと。
「妖子、さっきのはちょっと失礼だよ。私はいいけど、幻子とは初対面でしょ?」
幻子はあまり、他人に文句を言ったり注文をつけたりすることがない。それはいいことなんだけど、言ってもいいことまで我慢してしまっているように見えることがある。
さっきのはもちろん、私の友人に気を使ってくれたに違いないけど……。きっとストレスがたまることも多いと思うのだ。
「ごめんなさい、悪かったと思ってるわ」
妖子はパンをちぎる手を止めてこちらを向いた。
「どうして私と幻子が付き合ってると思ったの?」
さっきから気になっていたことだった。
「さっき言ったとおり。とても仲が良さそうに見えたから」
そう思われること自体はとても嬉しい。
私は幻子が――恋愛という意味じゃなくて――好きだったし、仲良く見えるということは、私と一緒にいるときの彼女も楽しそうに見えるっていうことだろうから。
でも、そこから二人は付き合っているという想像が出てくるのは変だろう。仲の良い同性の友人同士というのは世界中にいくらでもいるだろうし、その人達に対していちいち恋人同士だなんて疑いを持っていたらきりがない。
「うーん、そういうんじゃなくて。なんて言うのかしら」
私がそういう理屈っぽいことを述べると、妖子はちょっと苦笑いをして、パンを持つ手にあごを乗せて外を見た。
このポーズで横を見るのは彼女の癖だった。たぶん考え事をするときのポーズなんだろう。
「雰囲気、かしらね」
妖子は顔をこちらに向き直し、あごから手を離して言った。
でも、別にそんな雰囲気を醸し出してるつもりは全然ない。
必要以上にベタベタしてるつもりはないし、むしろ幻子なんかはものすごくドライに見えるんじゃないだろうか。ドライな中にも感情の変化は見えるんだけど、それはしばらく彼女と付き合った人間でないと分からないと思う。
でもそれきり、そのことについて妖子は何も言おうとしなかった。
「ちょっと部屋に寄っていかない?食後のお茶でもどう?」
階段を上って私達の部屋があるフロアに着いたところで、珍しく妖子がそんなことを言った。もう少し話をしてもいいかなと思ったし、お茶も飲みたかったので、私はあまり深く考えずにOKした。
部屋に入ると、妖子は私にベッドに座るように勧めて薬缶を火にかけ、壁際の棚からカップを順番に二つ取り出した。
続けて紅茶の入ったビンを手に取り、蓋を開けて中に入っているスプーンで葉っぱを掬い、ガラスのポットに入れた。一連の動作は流れるように滑らかで、とても様になっていた。
ここに来るのは初めてだった。間取りは私の部屋と同じなのに、家具や置いてあるものでここまで違って見えるのに驚いた。
装備品が多い私の部屋と比べると、妖子の部屋は女性らしい雰囲気がする。クッションや飾り物が置いてあって、いい香りのするドライフラワーが壁に下がっていた。
「何か珍しいものでもあった?」
妖子がカップにお茶を注ぎながら聞いた。私があちこち見回していたからだろう。
「女の子らしい部屋だなと思って」
私が思ったままを口にすると、
「それは褒められてるのかしら」
妖子は少しにやっとしながらそう言って、カップを私の前に置いた。
「あ、うん、もちろん」
私はお礼を言ってカップを受け取る。
妖子はお茶を一口飲んでから、ありがとうと言って笑った。
紅茶を飲んで微笑む美人エルフというのが、なんだかすごく絵になっていて思わずドキリとした。
紅茶はきれいな赤茶色で、とてもいい香りがした。一口飲むと、お茶なんかに詳しくない私でも分かるくらい、上品で高級感のある味だった。
「おいしい」
思わずそう言ってしまう。
「そう?良かった。私もここのお茶は好きなの」
ここのお茶、なんていうくらいだからきっといくつも専門の店を知っていて、よく足を運んでいるのに違いない。それはこの上品な部屋の主の行動にぴったりな気がした。
「詳しいんだね」
「竜子よりは詳しいかもね。でも、人から黙って出されたら、たぶんどれも同じに感じるんじゃないかしら」
そんなことはないと思う。
普段これだけおいしいお茶を飲んでいたら、味には敏感になるんじゃないだろうか。
「お茶のおいしさって、自己満足もあるのよ。好きな店で好きな葉っぱを買って、お気に入りのポットやカップで淹れる。その過程があるからおいしく感じるの」
「あ、それは分かる気がする」
お茶に限らず、きっといろんなことに共通することだけど、人ってポンと結果だけ渡されても満足しない。自分がやったという達成感や、結果を得るまでの気持ちの盛り上がりみたいなものが、満足を与えてくれるのだ。
「でね、同じ満足を得ようとしてる人は、なんとなく見てて分かるのよ」
抽象的な表現だけど、妖子の言わんとしていることはなんとなく分かった。
「同志、とかってこと?」
妖子は軽く頷いて同意を示した。
確かに、同じ志……は大げさにしても、同じ対象に興味を持つ人の考えなら、全く共通点がない人の考えよりもずっと想像しやすいだろう。私だって、例えば同じドラゴンナイトや前衛職の人の考えは理解しやすいけれど、後衛職のウィズさんなんかとはいまいち話がかみ合わないことも多い。
「さっき雰囲気って言葉を使ったけど、あれもそう」
食堂での話のことだろうか。私と幻子の間の雰囲気が恋人っぽいと言う。
でも、今の話とどう関係があるんだろう。
「どういうこと?」
「同じよ。私と同じものを求めてる雰囲気がするの」
妖子と同じもの。
恋人が欲しいとかそういうことだろうか。
「同じものって何?」
すごく気になったけれど、妖子は答えてくれなかった。
「さあ、何かしら」
細い指でカップをの縁をなぞり、楽しそうに笑っただけで。
「ふーーっ」
夕食を結構な量食べた後だというのに、お茶のおかわりももらってしまった。食べすぎ飲みすぎだ。
「ふふ、そこに横になってもいいよ」
そんな妖子の言葉に甘えて、私はひざから上をベッドの上に横たえてみた。やわらかい布団から、香水だろうか、さわやかな花の香りがする。
「いい匂い」
よく見ると、ベッドボードの端に、ガーゼのような袋がぶら下がっている。きっと香水やオイルを垂らしてあるんだろう。やばい、なんか寝ちゃいそう……。
そのとき、ベッドと床がギシリと音を立てた。妖子が片方のひざをベッドに乗せて立っていた。
「ほんとに無防備なんだから」
「え……?」
顔のすぐ横に妖子の左手が置かれ、すっと顔が近づいてきて、唇に何かが触れる感触があった。それが妖子の唇だということに気がつく間に、私の両手首は掴まれ、頭の高さでベッドに押さえつけられていた。
「……ぷはっ」
顔を横向きにして逃げ、そのまま起き上がろうとした私を、妖子が阻む。
「ダメよ」
そう言って、私の手首を押さえる両手に体重をかけた。
一番力の入らない位置に腕を固定され、すぐには振り解けない。
「ちょっ、やめ……っ」
私はやみくもに暴れたが、上から馬乗りにされた体勢は明らかに不利だ。
幸い、私の利き手を押さえている妖子の腕は左手だ。それを意識して、ゆっくりと右腕に力を入れて、妖子の左腕を押し返す。
エルフは基本的に華奢なので、人間より体重が軽い。まして妖子は女性だ。私が上半身を左に捻り、右腕に力が入りやすい体勢をとってからは、妖子の上半身の重さは片手で持ち上げられる程度だった。
「……やっぱり、竜子相手に力じゃ無理か」
妖子はひざをベッドから下ろして立ち上がり、軽く左腕を押さえるしぐさをして一歩後ろに下がった。
「やめて、……冗談でも」
軽く唇を押さえる。
荒い息が吐き出され、心臓が非常に備えて鼓動を早くする。妖子は肩にかかった髪をはらいのけ、テーブルに置いてあったカップを手に取ってから一口飲む。
それからゆっくり私を見て言った。
「そうね」
「……でも、こういう手もあるのよ」
その瞬間、私を中心にした空間が黄色く歪み、ブロックのような直方体に展開する。
これは……
――アースバインド!?
ブロックは私に向かって収束し、私の体の表面に黄色い膜を作ってから消えて見えなくなる。
抵抗する暇もなく、あっという間に体の動きが封じられていた。
「ん……くっ」
腕や腿に力を入れてみたものの、1ミリたりとも動かせない。
「無駄よ。……竜子がいくら力自慢でも、しばらくは何もできないわ」
妖子の言うとおりだった。
もともと人間よりはるかに強大なモンスターを無力化できる魔法だ。龍の血が混じっているとはいえ、人間の私に破れるはずがない。
体は空間に縫いとめられたように、いや、私の周りの空気が固体になったみたいにと言った方がいいか。どんなに力を入れようと、体が動く余地が残されていないのだ。
「……なんの、つもり」
わけが分からない。私は混乱していた。
もう、これは冗談の域を超えている。友人に対する行動じゃない。だとすれば目の前にいるのは敵でしかなくなってしまう。私は精一杯に相手を威嚇する表情を作り、妖子に向けた。
「そんな目で見ないで」
妖子は再びベッドに上がると、私の上に跨った。左手をベッドについて、四つんばいに近い体勢になる。
妖子の右手が頬に触れた。
「やめて……」
頬を包むように撫でられる。
指が肌をなぞるように滑り、唇の上で静止する。
噛み付いてやろうかと思ったが、頭が動かせないと目の前にあるものを噛むこともできない。何もできないまま唇を撫でられていると、妖子は指を離し、視線を私の目に戻した。
「部屋に呼ぶ、呼ばれるというのは、本来こういう事じゃない?」
「何が……」
妖子がいう「こういう事」の意味はすぐに分かった。だとしたら、妖子ははじめからそのつもりで私を部屋に呼んだんだろうか。お茶を飲むためなんかではなく、はじめからこんな、相手と無理やり関係を持つようなことをするつもりで……。
「それで、私を誘ったの?」
妖子は私の上に座ったまま、にっこりと笑って、だって可愛いんだもの、と言った。彼女の手が私の腹の上に置かれ、そのまま上へ上ってくる。
「ブラ、付けてないのね」
白い手が、ちょうど心臓の少し左辺りで止められた。
指の腹で、そこを確認するように撫でられる。
私はそんなに大きい方じゃないし、シャワーを浴びて着替えるときはつけないことが多かった。その代わりTシャツは厚手の生地だから、……その、先っぽの部分が分かるようなことはない。ぜったい。実際自分で見ても分からないし。
なのに、妖子の中指は正確に「先っぽ」の上を引っ掻いた。
「ちょっ、や……っ」
身をよじって逃げたいけど、体は動かない。しばらく服の上からそこを引っ掻いたあと、妖子の両手が肋骨の両外側に当てられ、伸ばした指先がつうーっと、そこから下へと体の端をなぞっていく。
ぞわっと、寒いときとは明らかに違う鳥肌が体の表面を駆け上る。
骨盤に当たったところで指は離れ、かわりに短めのTシャツの裾を掴んだ。
「直に触って欲しいでしょう?」
「い、嫌……」
白い両手がTシャツの裾をめくり上げる。たまっていた空気が逃げて、ひやりとした空気に腹部がさらされる。
「きれいなお腹」
伸縮性の少ないTシャツが、肌を擦りながらずり上げられていく。胸郭の一番下が、私の目にももう見えている。
ああ、やっぱり妖子は、私を……。
「……なんてね」
――え?
妖子はTシャツの裾を離し、舌をぺろっと出して笑った。
「ちょっとやりすぎたかしら」
Tシャツが元通りに引っ張り下げられた。
白い指が、視界のかすみかけた私の目元を拭う。
「さっきの質問ね」
「え?」
めまぐるしく展開する話についていけない。
「そうよ、……と言いたいところだけど」
ふいに体が軽くなる。バインドの効果が切れたのだ。
妖子を押しのけて逃げるべきか迷ったが、彼女は自分から立ち上がり、その体重からも私を解放した。
あっけにとられてぼうっとする私を見て、彼女は薄く笑って
「そんな無意味なこと、私はしないわ」
と言った。
「無意味?」
それが無意味だと言うのなら、さっきまでの行動はなんだったんだ。いたずらにしては、どう考えてもやりすぎだ。
「お互いに望んでするのでなきゃ、楽しくも嬉しくもないってこと」
だから、無理やりに関係を持とうとすることなんか無意味。それはまったくそのとおりだと思うけど。
でも、なんで、何の目的が。意味が。
何だったの、今のは。
私は妖子の真意がまったく分からなかった。
「竜子には、ちょっと教えてあげたかったの」
妖子は、分かる?と付け加えた。
ぜんぜん分からない。何から何まで。本当に、妖子は私の友人なのかということさえ、分からなくなりそうだった。
「……分かんない。何の、ためにあんな」
アースバインドで拘束して襲われる。
それも自分と同じ女性に。
それだけなら、嫌だけど行為の意味は分かる。
妖子は同性を好きになる人で、ああいう手段を平気で使う人間、っていうことになるけど。
でも、妖子は途中でやめた。本気じゃなかったと思いたい。
同性が好きなわけでも、私と関係を持ちたいわけでもなく、たぶん演技であんなことをした。一歩間違えれば友人関係が壊れるどころじゃ済まない、あんなことを……なんのために……。
ああもう、わけが分からない!
目をつぶって頭を振ってみても、汗ばんだ肌に髪が散らばるだけだった。
「簡単よ。平たく言えば、竜子はちょっと鈍感なの」
妖子はにやりと笑ってそう告げた。
……鈍感。
……そりゃ、幻子や妖子に比べたら頭はよくないと思うし、そんなに機転が利くほうでもないと思うけど、面と向かって言われるとなんだか少しムカっとする。しかも今の事との関係はぜんぜん分からない。
妖子はそんな私の気持ちを読み取ってか、別に悪い意味で言ってるんじゃないのよとフォローしてくれたけど、あんまり素直には受け取れなかった。
「竜子はどんな気持ちで、幻子さんを部屋に呼ぶの」
妖子は続けた。
……ああ、そうか。
話の流れ的に、ここは恋愛沙汰に対して鈍感という意味だったんだ。それがすぐに分からなかったあたり、私はやっぱりいろいろ鈍感なのかもしれなかった。
――幻子を部屋に呼ぶときの気持ち……。
そんなこと、いちいち考えたことはなかった。
でも、気の合う友人と、一緒にいたり、おしゃべりしたいからに決まってる、と思う。別にごく普通のことだろう。
「じゃあ、幻子さんに呼ばれたことは?」
「え?」
「幻子さんの部屋には」
幻子の部屋に行ったことはない。
彼女は私より、人との距離を長くとる方だから、住居というプライベートな場所に他人を呼んだりしないようなイメージがあった。
一緒にいられるなら、私の部屋でも幻子の部屋でも変わりはないんだから別にかまわない。
まあ、それでも。
いつか呼んでくれたら、嬉しいとは思うけど。
「聞き方を変えましょうか。さっき、私がやめずにそのまましていたら……嫌だった?」
そんなの、分かりきったことだろう。
結果的に妖子は途中でやめたけど、あのままバインドに固められて続きをされていたらと思うとぞっとする。
「嫌だよ、当たり前でしょ」
そうね、と妖子は頷いた。
「それは私が女だから?それとも男でも嫌かしら」
当たり前だ。男だって嫌に決まってる。
むしろ相手が男だったら、それこそ本当にいたずらじゃ済まない。一歩間違えたら犯罪だ。
妖子はさっき言った。同意がなければ意味がないと。誰だって同じだ。
相手が妖子でもどこかの男でも、私がその人を好きで、そうしたいと思ってはじめて、そういう行為を受け入れられるんだと思う。
「どっちも嫌」
別に妖子のことが嫌いではないけれど、妖子は女だし、私は同性を恋愛対象だと感じたことはない。
「そうね」
妖子は長い耳の先を触りながら、じゃあ最後に一つだけ、と言って人差し指を口元に当てるしぐさをした。これは答えてくれなくていいから、と。
「相手が幻子さんだったらどうかしら」
「え?」
――幻子が?
……想像できない。
ありえない。
幻子は冷たいときもあるけど、私が嫌がることを本気ですることはない。だからそんな状況は絶対やってこない。
でももしそうだったら?私を部屋に呼んで、何か怪しげなイリュージョンを使って動けなくして、さっきの妖子みたいに私に迫ってきたら……。
それは、やっぱり嫌だと思う。相手が誰でも同じ。無理やりあんなことをされるなんて絶対に。
そう答えようとした私の口元に人差し指を当てて、妖子はそれを遮った。
「慌てないで。部屋でゆっくり考えて?」
優しい声がゆっくりと、耳から頭へ流れ込んでくる。ようやく、妖子は私の友人なんだという認識が戻ってきていた。
私の肩にかかった髪を手で背中に流しながら軽く前へ押し、ドアの方へと私の意識を促した。
こんなもやもやする問題を部屋に持ち帰りたくなかったけど、これ以上ここにいても妖子は何も話さないような気がしたし、仕方ない。
私はお茶のお礼を言い、おやすみの挨拶をして妖子の部屋を出た。板張りの廊下を歩いて共有キッチンの横を通り、鍵を開けて部屋に入った。
開けっ放しの窓から、ドアに向かって夜の風が吹き込んで髪をかき回す。ドアを閉めると風は弱まったけど、寝苦しくない程度には空気を動かしてくれそうだった。
歯磨きをしにキッチンへ行き、戻ってきてベッドに座る。
ヘアバンドを外してテーブルの上に放り投げた。置かれていたベルトの真ん中にヘアバンドが落ちたのを見届けてから、私は立ち上がってランプを消し、ベッドに寝転んだ。
気持ちいい風に夜の匂いを感じながら、妖子の話を思い出す。
ゆっくり考えろと言ったって……。
何度考えても、幻子がそんなことをするはずがない。自信を持って言える。だから相手が幻子だったらなんて考えは意味がない。彼女は私が嫌がることはしないから……。
絶対。
あれ……。
でも。
――私が嫌がらなかったら?
幻子は私が嫌がることはしない。でも、喜ぶことはしてくれるかもしれない。
広場の見える席で一緒に夕食を食べて、それからお茶に誘ってもらい幻子の部屋に行って……。
それで、もし。
もし、怪しいイリュージョンの代わりに、幻子の手が私の手を取って、笑いかけてくれたら?
もし、その手が、唇が、私に触れたら?
それは嫌なことなのかどうか、すぐには分からない。
無理やりなシチュエーションばかり考えていたから、そんなのは嫌だし幻子だってするはずがないと思っていた。でもそうじゃなかったなら……ぱっと出てくるはずの、嫌だという気持ちが想像できなかった。
私は何か、心の中にしてある蓋のようなものの、取っ手の部分を見つけたような気持ちだった。
いや、私がそれに気づくことがないよう、ごまかしている自分に気づいたのかもしれない。
「寝よ……」
寝返りをうって、薄いタオルケットを体に巻きつける。シーツより少し濃い色の髪が、しゃりっと頬に擦れた。
私はもう一度、それを強引に心の隅に追いやって狭い部屋にしまいこむ。例えそれが、ずっとそのまま閉じ込めておくことはできないのだとしても。
――今はきっとまだいい。まだ、その時じゃない。
とにかく、もっと幻子の事をよく知る必要があるっていうことだと思った。一緒に狩りをして、ご飯を食べて、お茶を飲んで、おしゃべりをして。
それくらいならきっと幻子も喜んで付き合ってくれる。
そうやって、ゆっくり答えを見つければいいや。
妖子がくれた、この厄介な宿題の答えを――。
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