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 一月の半ば。

 経理部の遅めの新年会のあと。二次会に行く者も行かない者も、駅前の広場で解散するのが慣わしだった。

「みんな揃ったかァー」

 例年部長は不参加のため、課長が音頭を取る。

 部といっても20人程度の規模で、当然全員が顔見知り。けれど1人足りない。もちろん咄嗟に人数なんか数えられない。ただ、いつも私の前の席に座っている彼女が見当たらない。

「川村さんは……?」

 そばにいた数人に尋ねた。

「えっ、分かんない」

 一人がそう答え、もう一人の男性が大きな声を出す。

「川村さんと一緒にいた人ー?」

 こういう男性は助かる。

 輪の向こう側にいた一人が言った。

「川村さんトイレに行ってます」

 たしか彼女と同期の、すらりとした姿が左右に揺れる。

 ここの駅には構内にトイレがない。行くとしたら改札の中に入らないといけない。それなら解散するまで我慢できなかったのだろうか。

「じゃあ川村が戻ってくるまで待とうか」

 私たちのやりとりを聞いていた課長が言った。

 私は何か引っかかった。川村さんという人物をそこまでよく知っているわけじゃない。1年後輩だけど、私だってまだ新人みたいなものだから一つ下の面倒を見る立場にはない。

 ただ、目の前の席の彼女を毎日見ていて、わりと人の行動に合わせるタイプだという印象があった。だから解散する前にトイレに行くというのは彼女らしくないような気がしたのだ。だとすると、飲み会のあとに急いでトイレに行かなければいけない理由、それはひとつしかないような気がした。

「気分悪そうだった?」

 私が聞くと、すらりとした彼女は首を振った。

「いえ、そうは見えませんでしたけど……」

 私は課長に許しを得て、改札内のトイレを見に行くことにした。

 私は彼女の上司でも、特別仲がいい友人でもない。ただ、なんとなく思っていた。彼女は部署内に仲がいい友人はいないのではないだろうか。人の行動に合わせるという彼女の印象からは矛盾するようだけど、そんな気がした。

 この時期にしては珍しく、女子トイレは無人だった。

 都合がいい、私は少し大きめの声で呼んでみた。

「川村さん、いる……?」

 ドアの閉まっている個室は二つあった。少なくとも一名の無関係者に迷惑をかけてしまうけど、今は仕方ない。

 コンコン

 と控えめに中からノックの音がした。奥の個室の方だ。

「気分悪いの?」

 私は個室の前に行き、小さめの声で尋ねた。

「すみません、少し……」

 どうもすぐには出てこれないらしい。声の聞こえる位置からみても、彼女はまだしゃがみこんでいる状態だろう。

「先に解散しちゃって大丈夫?」

 私が聞くと、

「すみませ…っ、そうしてください」

 と弱弱しい声が返ってきた。

 彼女をここに残していくのもどうかと思ったけれど、とりあえず課長に知らせなければいけない。

 川村さんに元気付ける言葉をかけて、女子トイレを後にした。

「おう、どうだった?」

 階段を下りて広場に戻ると、課長がすぐに私を見つけて言った。そばによって手短に話をすると、分かったといって頷いた。

 結局、川村さんが個室から出てきたのは午前1時近くなってからだった。当然、電車は終わっている。

 私は学生時代からこの駅のそばに住んでいたので、同じような状況を何度も見てきた。そしてその度に、女の子に仮宿を提供してきた。けれど社会人になってまで、そんなことになろうとは思ってもみなかった。

 途中で何度か、先輩はもう帰ってくださいと言われ、トイレから出てきた後も何度も恐縮して謝られたけど、迷惑だという思いは不思議となかった。

「おじゃまします……」

 川村さんは恐る恐るという感じで、パンプスを脱いで玄関に立つ。ストッキングに包まれた他人の足を見るというのは不思議な気分だった。それが自室のフローリングを踏んで立っているのだからなおさらだ。

「ごめんね、二人だと狭いけど……」

「いえっ、とんでもないです」

 よくある1Kの間取りは、女二人といえども狭い。川村さんにベッドに座るように言い、エアコンのスイッチをつける。時計を見ると1時半だった。

「どうする?」

 始発まで眠るか、という意味で聞いた。私は寝たかったけど、3時間くらいで起きるのが結構辛いのも事実だ。しかも今は冬なので、床に雑魚寝というわけにもいかない。

「始発まで寝る?」

 そこまで聞いて、ようやく伝わったようだった。

「あ、ええと……」

 これは結構難しい質問だったかもしれない。寝る、となればベッドで一緒に寝る以外の選択肢はない。これが別の季節、もしくは男性同士なら話は違うかもしれない。

 でも女性同士である以上、体裁などという面から見ても自分だけベッドで寝ることはできない。女って面倒くさい。

 だから寝るならベッドで一緒に、寝ないなら二人とも寝ないという両極端の選択のどちらかを選ぶしかない。

「えっと、もし先輩が大丈夫なら……眠ってしまうと起きづらいので……」

 だいたい予想したとおりの答えが返ってきた。たぶん私が逆の立場でも同じ答え方をしただろう。

「ん、いいよ、じゃあ何か話でもしてようか」

 そう言うと、川村さんの表情がぱっと明るくなったように見えた。

「はい、ありがとうございますっ」

 二人分の紅茶を入れてちゃぶ台の上に置く。彼女はお礼を言ってカップを受け取ると一口飲んだ。

 1Kの部屋の中に二人で座れば、その距離はどうしても近くなる。これだけの近さで川村さんを見たことはなかったけど、不思議な顔立ちをしていた。横顔はかなりシャープなラインなのに、前から見るとふっくらした顔なのだ。横顔の印象のままの造形だったらさぞ美人だっただろうなんて失礼なことも考えてしまう。

「先輩、料理好きなんですか?」

 そんなことを考えていると、ちゃぶ台の上に置かれていた紙を見つけてそう言った。

 それは有名なレシピサイトのプリントアウトで、炊飯器でできるケーキというものだった。

「ん、ううん、ちょっと気になって作ってみただけ……」

 ポーカーフェイスを装ってそう答えたけれど、実際のところは結構恥ずかしい。学生の頃はプライベートなんて大して気にならなかったのに、ここ数年でずいぶん一人に慣れてしまったのだろうか。

 そう考えると、見られたら恥ずかしいものが他にもたくさんあるような気がしてきた。けれど、川村さんも良識ある社会人ということなのだろう。それ以上部屋の中を目で掘り返すようなことはしなかった。

「ここ、近くていいですね」

 無意識になのかもしれないけど、自然な話題の転換だった。

「うん、大学のときからそのままなんだけどね」

 大学はここから数駅離れたところにあって、就職するときもたまたまここから通えるところだったのだ。しかもこの地域のターミナル駅であるため、飲み会なんかはたいていこの駅の周りで行われる。酔っても電車がなくなっても帰ってこれるというのは確かに便利だった。

「川村さんは○○線だっけ?」

 以前会社から駅まで一緒に帰ったときにそう言っていた気がする。

「はい、○○駅です」

 会社を挟んで、このターミナル駅とは反対方向だ。

「じゃあちょうど終電が早くなるぎりぎりの位置だね」

 確かその一つ二つ前が大きめの駅だったと思う。よくあるパターンだけど、最終間際の電車は徐々に近くまでしか行かなくなるから、一駅違いで帰れないといったことも出てくる。

「そうなんですよ、△□駅までは1時近くまであるんですけど……」

 それでもさっきは間に合わなかったですけど、と笑うような申し訳ないような変な顔でそう言った。

 全然関係ないけれど、川村さんが飲んだカップには口紅の跡がない。トイレで取れてしまったのかもしれないな、などと考えていると、

「窓の外見てもいいですか?」

 と聞いてきた。私はうんと頷いて、

「建物が多いからあんまり見えるものないけど」

 と付け足した。

 川村さんは立ち上がってカーテンを少し開け、腰をわずかに突き出すような格好で向こうを眺めていた。そんな格好だから、どうしても服装を含めた彼女の体に目がいってしまう。

 中肉中背、というよりは少し細いだろうか。でも脚がけっこう太い。今どきの女性としてはかなりと言ってもいいかもしれない。でも、これは前から思っていたことだけれど、脚の太さが非常にバランスよく見えるのが不思議だった。全体としては細いという印象がずっと強いのだ。

「あそこの建物ってなんですか?」

 そんなことを考えていると、川村さんが言った。

「どれ?」

 私が立って窓の方へ行くと、彼女は少し横にずれてから、駅とは違う方向を指差した。

「ああ、あれはどこかの大学みたい。近くで見たことはないけど」

 けっこう高い建物らしく、鉄塔なんかについているような点滅する明かりが2つ光っていた。

「川村さんは、大学は何やってたの?」

 大学繋がりでそう聞いてみてから、わりとプライベートな質問であることに気付いて、

「もちろん言える範囲でいいんだけど……」

 と慌てて付け足した。

 彼女はカーテンを閉めながら、

「私は音大だったんです」

 と答えた。

「音大?」

 短大と聞こえたような気もして思わず聞き返す。

「はい」

 彼女は短く答えた。

「ええ、すごい。何か楽器をやってたの?」

 私が言うと、川村さんは困ったように笑って言った。

「いえ、私はピアノでしたけど、全然すごくはないんです」

 正直なところ、音楽のすごいすごくないなんてまったく分からなかったけど、美術や音楽という分野はなにかすごい人たちの集団だというイメージがあった。

 どうして経理の仕事をしてるんだろうとも思ったけれど、それは人それぞれの事情があるのだろう。

「先輩は、何をされてたんですか?」

 川村さんはちゃぶ台の横に戻ってきて座った。

「私は経済学部だったから、そのまま」

 文系の中で少しでも仕事になりそう、というだけで選んだ学部だった。そこから経理という今の仕事に入るのはわりとスムーズだったけれど、本当にそれだけだ。

 何かをすごく頑張ったわけでも、思い悩んだわけでもなかった。

 すごいかどうかは別として、川村さんは私より頑張ってきたんじゃないだろうか。そんな彼女に対して、私はなんとなく劣等感のようなものを感じてしまった。

***

 新年会から一週間ほど経ち、寒い日が続いた。昼食に出るのも億劫で、この時期だけお弁当を持ってくる人も多い。

 そんなある日、たまたま階段の踊り場ですれ違った川村さんに声をかけられた。

「お礼?」

 聞くと、先日のお礼をしたいという。お礼なんかいいという社交辞令的な答えを返したものの、彼女も食い下がる。後輩としての立場もあるのかもしれないけれど、お礼と言ったってせいぜいランチを奢ってもらう程度だろう。あんまりぱっとしない。

 考えておくと答えようと思ったとき、ふとひとつの考えが頭に浮かんだ。

「え、ピアノですか?」

 ピアノが聞きたい、と言った私に、彼女はちょっと目を大きくした。

 深い理由はなかった。川村さんは、ひょっとしたらピアノを聞かせることを良くは思わないかもしれないとも思っていた。ただ、それを考えた上でも、べつに意地悪のつもりで言ったわけではなかった。本当に単純に、彼女がピアノを弾くのを見てみたい。それだけだった。

 勤務時間中ということもあるだろう、彼女もあまり悩まずに、というより悩む時間を与えられずに、

「分かりました」

 と答えて階段を下りていった。

 ここ1,2週間の間、彼女に対する劣等感はとろ火のように心の隅にあった。

 仕事は1年先輩ということを差し引いても、私の方ができる気がする。もちろん、そんなことを自慢するつもりはなかったし、それこそどんぐりのなんとやらだ。彼女がピアノを弾けることを羨ましく思っているわけでもなかった。

 つまり、これはたぶん劣等感ではない。人は他人を鏡として自分を見ると言う。社会人になってから2,3年の間、あまり鏡を見てこなかった私の前に現れた新しい鏡、それが川村さんだというだけなのだ。

「すみません、お待たせしましたっ」

 いつものフード付きコートを羽織った川村さんが出てきた。いつもは後ろで結んである髪が下ろされているのをはじめて見たかもしれない。フードにちょっとかかるくらいの髪が、街灯の明かりをきれいに跳ね返していた。

「ううん、今終わったところ」

 うちの会社は業務上、経理の仕事が暇になる時期というのがある。暇と言っても休みというわけではないけれど、2,3週間、必ず定時で帰れるというありがたい時期であり、とりわけ決算を控えたこの時期のそれは年度内最後の羽を伸ばせる時なのだ。

「△△駅なので、行きましょう」

 △△駅は新年会のあったターミナル駅、私のマンションの最寄り駅だ。

 ピアノが聞きたいと無理を言ってみた私に対し、川村さんは二つ返事でOKしてくれた。家にはピアノがないから、練習用のスタジオというのを探してくれたらしい。それを聞いたとき、どこで誰のピアノを演奏するのか、ということなどまるで考えていなかった自分が恥ずかしくなった。

 △△駅に仕事終わりでも入れるスタジオがあるらしく、定時で上がれるこの時期を利用しようということになったのだった。

 思ったより狭い部屋に、一台のグランドピアノが設置されていた。

 こういったところにはまったく縁がなかったので新鮮味があった。2重になったドアや音楽室みたいに穴の開いた壁。受付の前にはギターのようなものを担いだ男の子がたくさんいたから、バンドの練習なんかにも使われるのだろう。

 川村さんは仕事用のカバンの中から楽譜を取り出してピアノの前に立てかけた。コートを脱いでその鞄の上に置くと、

「じゃあ弾きますね」

 と言って椅子に腰掛けた。

「えっ」

 

 と思わず声を出してしまった。ふつう先に練習したり簡単な曲を弾いたりするものなんじゃないんだろうか、よく分からないけれど……。

 私がそう言うと、

「先輩、先輩は私の演奏聞いてくれるお客さんなんですよ」

 川村さんは笑って言った。お客さんの前で練習するわけないじゃないですか、と言って椅子に座り、髪をまとめる。

 そうか、そういうものなんだろうか。もっとも、練習の必要がないくらい上手に弾けるのかもしれない。

 しかし……

「ひとつだけ先に言っておかないといけないんですけど……」

 そう考えていると、川村さんは真面目な顔でそう言った。私が頷くと、

「この曲、私には難しいんです。いちおう練習はしてきたんですけど……」

 と続けた。

 学生時代から上手く弾けたことないんです、と。

 私は自分が知っている曲というだけで選び、難易度のことまでは考えていなかった。無神経と言われればそうかもしれないけれど、彼女にも弾けない曲があるだろうということくらいは考えていた。でも、そのときは言ってくれると思っていたのだ、その曲は弾けません、って……。

 ふふ、と川村さんは小さく笑ってからこう言った。

「かっこ悪いところ見せちゃいますけど……」

 そうして両手で鍵盤を叩き始める。

 最初の部分は分からなかったけれど、すぐに自分の知っているメロディーになった。細かい部分は分からないけど、上手に弾けているように思える。前半はゆっくりめだからだろうか。

 そして私の予想は当たっていたらしい。5分ちょっとの曲だけれど、後半に向かうにつれてだんだんと音と音の間隔が短くなる。川村さんの手を見ていると、指を動かす範囲が広くなっていることも分かる。

 ポン、と、明らかに間違いだと分かる音が鳴った。けれどそれは一度だけで、彼女は何もなかったように弾き続ける。

 20秒ほどして、またピン、と違う音が鳴る。曲はいちばん盛り上がる部分で、だからこそ難しいのだろう。間違いの間隔はだんだん短くなる。全体として、素人目でみれば十分に弾けていると思う。でも、素人目で見ても間違った部分も分かる。

 川村さんのすらりとした横顔が、楽譜を見つめる。

 その顔を見て、私ははっとした。それはいつも会社で見る彼女の顔と同じだったのだ。いま、彼女はきっと一生懸命弾いている。それは私の見た分にはということでしかないけど、確かにそう思う。そしてまったく同じ顔で、彼女は毎日伝票やパソコンとにらめっこしているのだ。

 そう思うと、急に体がのぼせるような熱を持った気がした。

 終盤、また少しずつの間違いをしながらも、彼女は最後まで弾いた。私が勝手にリクエストした曲を、上手くいかないのを承知で弾いてくれたのだ。

 私は拍手した。社交辞令なんかじゃなく、拍手をせずにはいられなかった。

 川村さんは少し照れたような顔でお辞儀をして立ち上がると、鼻の下を指で擦った。それから向こうを向いたかと思うと、

「あ、ち、ちょっとごめんなさいっ」

 と言い残して部屋を出て行った。

***

 バレンタンデー用のチョコレートの広告をあちこちで見かけるようになった。

 あれから川村さんとは個人的な話はしていない。暇な期間が終わったせいもあるし、ある噂を耳にしたせいでもあった。

 経理部にいる私の同期は3人で、私を含めて2人が女、1人が男だ。噂というのはその男性社員と、川村さんの関係だ。

 バカバカしいとは思うものの、この手の噂は当たらずとも遠からずな場合も多い。特に経理や総務同士の関係の場合、他の部署に比べて行動範囲が社内に限定されるために他人の目にも留まりやすい。これが営業の男と経理の女なら、昼食に行く振りをして2人で会っていてもまず分からない。

 もっとも、こんなことを考えること自体がばかばかしいのだ。同期の彼はなんとなく頼りない気がしないでもないし、川村さんも見る目が無いなどと思ってしまうけれど、そんなのは人の自由なのだ。川村さんに相手がいなかったとすれば、それはちょっと意外ではあるけれども……。

 そんな噂が聞こえてくるのも、クリスマスからこの時期にかけてなのかもしれない。なんだかんだでそういうことを意識してしまうのだろう。いや、他人事みたいに言っている私だって意識しているのだと思う。だからこそ川村さんの噂に舌打ちしたい気分になったりするのに違いなかった。

 バレンタインデーの当日、総務の女性社員が各部署にチョコレートを持ってきた。男女は関係なく、単純に三時になるとおやつとして振舞われる。このチョコレートがどこのブランドのものかで会社の情勢が分かるというトンデモ話もあるけれど、それに照らし合わせるなら、今年もわが社は大丈夫らしかった。

 その日の昼、珍しく川村さんにランチに誘われた。チラリと例の男性社員の方を見ると、弁当を食べている。

 いけないいけない、こういうのは一度気にし始めるときりがない。自分には何の得にもならないのだから、首を突っ込まないに限るんだ。

 川村さんとやってきたのは駅前の中華料理屋。比較的広めでランチが安く、量の融通もきくので女性社員にも人気の店だった。

 店に入って席に通され、上着を脱いで席に座る。そのとき私は思った。

 これは話があるに違いない

 私は彼女と一対一でランチに来たことはないし、お礼の件はこの間でいちおう済んだ。つまり、私と川村さんの間には、今は特に話す必要のある用事はない。当たり前だけど、用事がないのに誘うということは、何か別の用事があるということなのだ。

 店員がお水を持ってきて、注文をとっていった。おしぼりで手を拭いたあと、川村さんはそれを小さく畳んでから私を見た。

「あの……」

 私が軽く首を傾けると、彼女は少し視線を落として続けた。

「すみません、急に誘っちゃって」

 どうもいいにくい話らしかった。

「ううん、私はお弁当じゃないからちょうど良かったけど」

 彼女はそうですか、と言って下を向いた。

 なんだろう、この微妙な距離感は。新年会以降、私と川村さんは以前よりだいぶ親しくなったと思う。もちろん個人的に一緒に何かするというレベルじゃないけれど、部署の中では仲がいい方なのは間違いない。

 けれど、ここ数日、いや二月に入ってからだろうか。またなんとなく、彼女との間に距離を感じるようになっていた。例の男性社員のせいなのかもしれないけれど、それは噂を聞いた後で、私の頭が無理やりこじつけただけのような気もする。

「あの、ちょっとだけお願いがあるんですが……」

 川村さんはそう言った。

「ん?」

 お願いか……。

 なんなのか想像もつかないけれど、私の頭が作り上げる想像は、やっぱり噂のことばかりだった。

「私が今から言うことは、先輩を不快にさせるかもしれないことなんです」

 こう言われては、どうしても身構えてしまう。彼女が周りに気を使いすぎるタイプだとしても。

「うん。……それで?」

 なるべく穏やかな口調で言った。

「そのときは、はっきりそう言ってもらっていいんです」

 私はなんとも言えず、彼女が続けるのを待った。

「ただ、できたら引いたりしないで欲しいんです、嫌だって言ってくれればそれで……」

 川村さんは早口でそう言った。

「ひとつ聞きたいんだけど」

 話が見えないけれど、一応聞いておく。

「それは私に悪意のある内容なの?」

 そうであれば、あまり聞きたくはないのが当然だろう。

「いえっ!」

 彼女は慌てて否定した。

「私は先輩のこと好きなので、そんなこと……」

 そこまで言いかけて、つっかえたように口を閉じた。見れば耳の先が赤くなっている。

「ん?」

 いまひとつ話の見えない私は、彼女を落ち着かせようとゆっくり相槌を打った。

 川村さんは口元に手をやり、唇を拭うようにしてその手を下ろした。

「悪意がないのなら言ってみて?」

 運ばれてきた料理を食べるように促し、自分も箸を持った。川村さんははいと言って箸を持ったが、すぐにテーブルにそれを置いた。

「先輩のこと好きなんです」

 これは私でも、意味を取り違えようがなかった。そのときの雰囲気、川村さんの表情が、恋愛の告白をしている以外に考えられなかったから。

「……」

 すぐに何か言えると思ったが、言葉が出なかった。完全に予想の外だったせいもある。これが男性相手なら、席に座ったときに分かったかもしれない。けれど女性と一緒に席について、この言葉を想像できた人は多くないだろう。

 彼女が前もって言っていたお願いの意味が、ようやくはっきりと理解できた。同性を相手に恋愛の告白をするという前提で見れば、それ以外に言いようがなかっただろうとさえ思えた。

 けれど、なんと答えればいいのだろう。はっきりしているのはひとつだけだった。

「まず、川村さんのお願いは守れるわ」

 そう、べつに引いたりはしない。恋愛ということをひとまず置いておくと、私は川村さんという人が嫌いではない。むしろ好きな方だと思う。見た目も中身も。

「ありがとうございます……っ」

 いつ涙がこぼれてしまうのか、見ているこっちがはらはらするほど、彼女の目は濡れていた。

「とりあえず食べよ? なんて答えればいいかすぐに思いつかないわ」

 私がそう言ってスープに口を付けると、川村さんももそもそとご飯を食べ始めた。

「どうしてすぐに思いつかないんですか?先輩は……」

 男性を好きになる人でしょう、という言葉が続くのだろうと思った。確かにそうだ。いままで好きになった人は男性だったし、1度だけ付き合った相手も男性だった。

 だから、嫌なら嫌だと言えばいいだけなのだ。彼女もそう言っていたし、私自身、どうやって断るかで悩んでいたわけではない。

 はいとは言えない。女性と付き合ったことはないし、それがどんなものかも分からない。

 でも、いいえとも言えない。

 どうして言えないのか、それについて悩んでいるんだと思う。

「難しいこと考えながらだと味が分かんないわ」

 ここのランチはおいしいのだ。だけど、今日ばかりは、おいしい料理よりも川村さんのことが頭を占領してしまっていた。

「ごめんなさい」

 彼女は申し訳なさそうにそう言った。

 それから、私たちは食べることに専念した。考えながらだったから味はよく分からなかったし、食べる順番もちぐはぐだった。

「先輩」

 食べ終わり、ウェイターがお皿を片付けていってから、川村さんが口を開いた。これ、と言って、バッグから小さな包みを取り出した。

「買ったものなので……もしよかったら」

 見たことのある洋菓子屋のロゴが入った包み紙。彼女の言葉の選び方がなんともちぐはぐだった。買ったものであることは、ふつうはこういう場面で強調しない。けれど、そうならざるを得ないんだろう。こういうことの連続が、周りに合わせるのが上手な彼女を作ってきたのかもしれないと思うと悲しかった。

 私はどうすればいいんだろう。これを受け取れば、彼女に期待をさせてしまうことになる。普通に考えれば、私が女性を好きになるはずはない。

 

 彼女ががっかりする顔を見たくない。

 いま私の頭にあるいちばん強い思いはそれだった。

「ありがとう。……でもいまはこれ、受け取れない」

 そう言いながら、少しだけ包みに触れた。彼女は小さく返事をした。

「偉そうな言い方だけど……」

 私が少し言い淀むと、川村さんはなんですか、と言って私を見た。

「期待させてがっかりさせたくないの」

 彼女は濡れた目のままで、はいと言って頷いた。

「それは……断ってるんですよね?」

 すぐに答えられない。

 どうしてなんだろう。私も女だから、男性を相手に断る言葉を言わざるを得なかったことは数回ある。それはやっぱり好みの問題だから仕方ない。だけど、そのときとは何かが違う。

 いま、首を縦に振るだけで話は終わる。なのにどうしてそれができないのか。これじゃ、結局川村さんに期待を持たせるだけになってしまう。

 いや、川村さんは察しがいいし、この告白の難しさを誰よりも分かっているんだろう。私が何も言わなければ、この話はこれで終わりになるに違いない。

「先輩がはっきりしないと……私はこう言うしかありません」

 けれど川村さんは、私の予想を裏切る言葉を続けた。

「デートしてください。先輩」

「1回だけ……」

 そうだ、彼女は諦めが悪いのだ。拗ねたような膨れっ面を見て思い出す。ピアノのときも、日々の仕事も、彼女は投げ出したりしない。最終的に上手くいかなくても、とにかく最後までやる人なのだ。

「そうしたら、私は嬉しいし、先輩も断る理由が探せます」

 確かに、デートは面接試験みたいなものではある。第一印象ではよく分からなくても、デートをした上で合わないと思えば断りたい理由はできるけれど……。

 今すぐに断れない以上、そうするしかない。同性ということは置いておき、デートをして断るのは悪いことではない。むしろお互いのためである場合だってあると思う。

「分かった」

 日時はあとで決めることにして、私たちは席を立った。

***

 翌週の日曜日の午後、私たちは某ツリーの下にあるショッピングモールをぶらぶらしていた。上じゃなくて下にいるのは、受け付けに並んでもらえた入場券が夕方からのものだったからだ。開業から半年以上経つけれど、まだまだ土日は混んでいるらしい。

「すみません、これなら他のところにすれば良かったかも……」

 川村さんが申し訳なさそうな顔で言う。

「いいよいいよ、一度くらいは来てみたかったし」

 それに、デートなんていうのは待ち時間がメインと言ってもいいんじゃないだろうか。行く場所が目的なわけじゃなくて、相手と一緒にいることが目的なわけだから。

 もっとも、それは恋人同士のデートの場合かもしれないけれど……。

 しばらく服やら靴やらを見て回ったあと、よくある喫茶店に入って座った。向かい合う席ではなくて、外が見える形になっているバー状の席だ。道ゆく人々を見ていると、家族連れとカップルが多い。

 あそこに見えるちょっと容姿のいい男と、川村さんが歩いているところを想像してみる。きっと似合うだろう。もちろん、あの男の中身が彼女に合うものだとは限らないし、むしろそうじゃないような気もするけど。

 コーヒーをずず、とすする川村さんを見て、ふと思い出したことがあった。

「そういえば、新年会のときさ」

 私が言うと、

「はい」

 川村さんはカップを置いてこっちを向いた。

「どうしてあんなに飲んでたの?」

 そう、彼女は新卒で入社してきて二年目だけど、あんなふうになる飲み方をする人だという印象はないし、そう聞いたこともない。あの新年会のときだけなのだ。

「あぁ……」

 川村さんは照れくさそうに顔を傾けると言った。

「あれは、誰かのお酒と間違えたんです」

 グラスを取り違えたということか。たしかにああいう場では起こりそうな間違いではあるけど……。

「もう終わる頃に、残りを飲んじゃおうと思って飲んだんですけど……」

 それが自分のグラスより強いお酒が入っていたらしい。何事もなかったからいいけれど、ちょっと笑いごとではない話ではある。それを聞いて、私は川村さんがお酒に強いのかどうかも知らなかったことに気付いた。

「……真面目だよね、川村さんて」

 なんとなく、いまの話を聞いて思い出してしまった。

「え?」

 突然自分自身の話になったのに驚いたのか、ちょっと面食らったように上体を引いた。

「いつも思ってたんだけどさ、普段の仕事とか、この間のピアノのときも……」

 特に目立つことでもないのだろう。特別仕事ができるとか速いとか言うわけでもないのでなおさらだ。

 彼女の真面目さは、結果を出すためのものじゃないのかもしれない。だから目立たないのかもしれない。でも、だからこそ、彼女という鏡に映った自分を見たときに、私はとても焦ったんだ。

「こっそり尊敬してるんだよね」

 私がそう言うと、川村さんは目を伏せた。一重のまぶたから、少しマスカラのついた睫毛へつながるラインがきれいに浮かび上がる。

「そんなことは……」

 下ろした髪の間から見える耳の先が赤い。猫の耳の先っぽのように、私はそこに触れてみたくなる衝動を抑えてコーヒーを飲み干した。

 東京タワーより高い展望台から見える夜景はきれいだった。待ち時間が長かったけど、暗くなる時間でよかったのかもしれない。

「うわあ、ちょっと怖いですね」

 たしかに、足元を見るとけっこう怖い。

「会社見えるかな」

 見えないだろう、と思わず心の中で笑ってしまう。○○線がどっちの方向かも大まかにしか分からない。

 私の部屋がある△△駅も、都心の明かりに紛れて分からないだろうな、と思った。もし世の中が真っ暗で、あの駅周りだけが明るければきっと見えるんだろう。

 そう考えると、自分の小ささや意味のなさを感じて寂しくなってしまう。

「先輩」

 ふと、川村さんがつぶやくように私を呼んだ。

「先輩さっき、私のこと真面目だって言ってくれましたけど……」

 彼女の黒い目に、室内の明かりが映る。

「私だってずっと尊敬してたんです、先輩のこと」

 え、と反射的に否定しそうになった。私のいったいどこを尊敬するっていうのか。平凡を絵に描いたような女じゃないか。もちろん平凡が悪いとは思わないけれど、尊敬に値するところがあるとは思えなかった。

「川村さんに尊敬されるようなところ……ない気がする」

 ぼそりとそう言うと、彼女は少し声を大きくして言った。

「それ、私のセリフです!」

 目の前のカップルが振り向いたので、咄嗟に肩をすくめて、すみません、と小声で言った。

「私なんか大学も適当に選んだし、仕事もその延長だよ?」

 やれることを自分のやれる範囲でやってきただけだし、それに使ってきた労力だってごく人並み程度のものだと思う。

「でも、先輩は仕事中すごく集中してます」

 自分はその真似をしてきた、と彼女は続けた。そう言われれば嬉しくないことはないけれど、実感はわかなかった。

 そう思っていると、彼女は少しいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「先輩が集中してるときのクセ、教えてあげましょうか」

「えっ」

 クセ? そんなものがあるんだろうか。

 いやそれよりも、それってかなりかっこ悪くない? 貧乏ゆすりとか肩を揉んだりとかだったら……。

「そ、そんなのないでしょ……」

 思わずそう言ってしまう。彼女の表情も気になった。

「ありますよ、こうやって耳触るんです」

 彼女が自分の耳の先を人差し指で触るのを見て、顔が熱くなるのを感じた。そんなのまったく覚えがない。

「嘘でしょ」

 少し頭を反らして川村さんを見たが、彼女は本当ですよ、と言って笑った。

「いいじゃないですか、すごくかわいくて」

 そういう問題じゃない。想像していた動作のどれよりもマシではあったけれど、自分が知らないうちにそんなことをしていて、それを人に見られているなんて。

 川村さんは相変わらず笑っていたけど、嘘をついているようにも見えないし、嘘だとしてあまり意味があるとも思えない。

「あの、……気にしましたか?」

 私が考え込んでいるのを見ていた川村さんが、真顔に戻って聞いてきた。そりゃ、気にしてるに決まってる。こんなことを気にしない女はいないだろう。

「ごめんなさい」

 何も答えない私が怒っていると思ったのか、彼女は小さい声で言った。

「でも、見た目がおかしいとかじゃ絶対ないですから……」

 本当だろうか、結局のところ、気になるのはそこなのだ。

「本当に?」

 私が聞くと、彼女は真面目な顔で私を見て頷いた。

「先輩の同期の林さんも言ってましたよ、かわいいよねって」

 林というのは、例の川村さんとの噂が合った同期の男だ。彼は彼女と何の話をしてるのか……。

 例の噂がどうなったのかも気になったけれど、今はとりあえず川村さんの言葉を信じておくことにした。

 ツリーを降りて、駅前まで戻ってきた。駅前の時計を見ると19時10分を指していた。。

「どうする?ご飯とか食べる?」

 私が聞くと、川村さんは少しだけ間を置いてから言った。

「先輩から誘ってどうするんですか」

 ああ、と思った。

 今日はデートだったのだ。なんとなくご飯でも、というだけだったけど、今日に限っては、それは大きな意味を持ってしまう。

「今日は楽しかったです、先輩」

 私が黙っていると、川村さんは私の方に全身を向けてそう言った。いったん意識してしまうと、なんと答えればいいのか分からない。さっきまではごく普通に楽しく話せていたのに。

「うん、私も」

 まるで誰かに代弁してもらっているかのような、中身のない言葉。嘘ではない、楽しかったのは本当だった。だけど楽しかったと言っていいのか分からない。

 顔を伏せたくなかったから、川村さんを見たままでいた。視界の中で、彼女が素早く近づいてくる。私の横を通ってどこかへ行くのかと思った瞬間、頬に柔らかいものが触れるのを感じた。

「じゃ、また会社で」

 川村さんはそう言うと、走って改札を通り抜け、見えなくなってしまった。私はしばらく、そこに突っ立ったままでいた。

***

 次の日の月曜日、川村さんは休みだった。風邪ということだったけど、どうなんだろうか。昨日の夜、彼女はあれからまっすぐ帰ったのだろうか。

 心配になって給湯室へ行き、短いメールをしてみたら、

『大丈夫です。忙しいときにご迷惑かけてすみません!』

 と返ってきた。体調が悪いのは本当だったようだ。昨日は暖かそうな格好をしていたし、屋外にいた時間もそんなに長くない。べつに体が弱いという話も聞いていないから、本当にたまたまだとは思うけれど……。

 一人暮らしで風邪を引くと心細い。誰もが経験のあることだと思う。お見舞いに行ってあげたい気持ちもあった。だけど昨日の川村さんの『先輩が誘ってどうするんですか』という言葉を思い出すとそれも難しいだろうか。

「はぁ」

 思わずため息が出る。川村さんのことは好きだ。一緒にいて楽しいし、見た目も中身も好みなのだから、嫌いになりようがない。なのにどうして、言葉や行動を選ばなきゃいけないんだろう。楽しいから一緒にいるんじゃいけないんだろう。

「珍しいね、ため息なんかついて」

 いきなり声をかけられてびっくりする。振り返ると、林が湯飲み茶碗を持って立っていた。

「なんか悩みごと?」

 ひょろりとした頼りなげな外見だけど、意外と鋭い。私は首を振って否定すると、例の噂のことを聞いてみた。

「ああ」

 彼は茶碗をシンクの上に置き、ポットの再沸騰のボタンを押してから答えた。

「あれは嘘だよ、知ってるだろ、彼女は……」

 そこへ課長がやってきたので、林はいったん言葉を切った。上の棚からティーバッグを取り出して選んでいる間に、課長はお茶を入れて戻っていった。

 林は近くによるように手招きし、耳元でこう言った。

「彼女が好きなのは君だろ」

 お茶を飲んでいたら噴出していただろう。どうして彼がそれを知っているのだろうか。それはつまり、川村さんが女性を好きになる人だということをも、知っているということになる。

「相談されたんだよ、11月頃かな」

 私の問いに、林はお茶をすすりながら答えた。が、すぐに思い出したような顔になると、親指でエレベーターを差した。ここではまずいということだろう。

 一階まで降り、受付の前を通って外に出た。一見目立つようだが、目立つだけに内緒話をしているとは思われにくい場所なのだ。

「相談されたって、何を?」

 林は腕を組んだポーズで立つと、

「だから、君を好きだけどどうすればいいかってだよ」

 驚いた。その事実にもだけど、林と川村さんの間にそういう話をする関係があったことの方が大きかった。

 私がそう言うと、

「そりゃ、女子社員には聞けないからだろう」

 それは確かにそうだった。それを女子社員に相談してしまったら、被害は甚大なものになるだろう。

「彼女のために言うけど、すごく常識の範囲での相談だよ」

 個人的な情報を聞き出したりとかではないということか。それは信用できる。彼女は手段を選ばないタイプかもしれないが、それはあくまで、やっていいことといけないことをとても厳しく選んだ上でのことなんだろう。

「じゃあ、あの噂は……」

 私が言うと、林はちょっと笑って

「会社の外で二人でいたからだな」

 中で話す内容でもないだろ、と言った。

 なるほど、たしかに同期でもない男女が社外で一緒にいれば、噂の種になっても不思議じゃない。

 それでも林は弁解などせず、彼女の秘密を一切漏らしていない。それは純粋に偉いと思った。

「俺は婚約者がいるからいいんだけどさ」

 林がさらりと言った言葉にぎょっとする。婚約だって?

「林君……そんな相手いたんだ」

 ただ、それはさすがに失礼な言い方だと思った。今日話してみて、彼の新しい一面を見た気がする。なんだかんだで大人の男だな、と見直しさえした。

「失礼な……」

 腕を組んで反り返る彼を見て、そんなことを考えた。

 翌日も、川村さんはいなかった。なくなってはじめて分かるものがあると言うけれど、その通りだった。

 いつも話をする時間は多くないけれど、作業が一段楽したときなど、彼女のことを見ていたのだと思い知らされる。なぜかと言うと、彼女の席の向こうにいる課長と何度も目が合ったからだ。なんか用か、とジェスチャーを返されるほどだった。

「川村さん、今日も風邪?」

 斜め前の女性社員に聞いてみる。

「いえ、風邪じゃなくて有給です」

 え、と思わず聞き返してしまった。確か昨日は風邪だって聞いたけど……。

「そうです、昨日は風邪だけど……」

 彼女はそこで言い淀む。風邪は名目上ということだろうか。

「たぶん……」

 彼女がそう言うと、その横の男性が口を添えた。

「川村さん、先週やたら頑張って仕事してたんですよ」

 だから、ここで休むことは前もって決めていたんじゃないかということらしい。でも、それならなんで風邪なんだろう。普通私用じゃないのか。

「いや、私用ですよ。今日は私用になってます」

 男性社員が答える。彼は壁際にあるホワイトボードを指して言った。

「昨日も私用だったんだけど風邪引いたって言ってました」

 再び斜め前の女性が言った。

 なんだそりゃ。もともと休みなら言う必要ないじゃないか。

 

 私はふと思った。もしかしてこれは川村さんの作戦なんだろうか。ばかばかしいけど、そう考えるとそれもありえなくはない気がしてきた。実際、私は彼女がいないことでつまらなく思っているし、誤解を恐れずに言えば会いたい。

 けれど、そのために会社を、それも二日も休むというのは彼女らしくない気もする。私用のために人に迷惑がかかることを、すごく嫌いそうに見えるからだ。

「いまって、川村さんの分の仕事は?」

 私は仕事をチェックする立場ではないので、話の続きとして聞いてみた。

「今日の分までは終わってるみたいです」

 ええ!?

 いくら頑張ったからって、先週だけで2日分余分に仕事ができるとは思えない。特に新人の間は先が読めないせいもあって難しい。

「正確には先週と今週の8日間で、その2日分の仕事が終わる予定になってます」

 8日ということは、4日で余分1日分。つまり1日に1.25日分の仕事をすれば終わる計算だ。

「今ちょっと手空き気味なんです」

 女性社員は少し申し訳なさそうな顔をして言った。経理部の中にも課があるため、扱う伝票の量に差ができるのは普通のことだった。

 川村さんはそれを利用したのだろうか。それともたまたまだろうか。どちらとも分からなかった。ただ分かっているのは、明日、彼女は出社してくるということ。

 私はあることを決心すると、仕事を再開した。明日の分の仕事を少しでも減らせるように。

***

 翌日の夜、私はとある温泉地のホテルに泊まった。前日、つまり昨日は残業をして、今日の仕事の一部を終わらせ、今日は有給をもらった。

 川村さんに仕返しをしてやりたいという気持ちもあった。彼女の休みが作戦だったのかどうかは分からないけれど、寂しいと思ってしまった自分がなんだか悔しかった。

 終業時刻である17時過ぎに川村さんにメールをして、理由は書かずに場所だけを書いた。彼女は来るだろうか。

 会社のある駅からここまでは電車で1時間ちょっと。駅からホテルまでのバスの最終が19時半。18時頃までに来ると決めれば間に合う。時間的な余裕は十分あるはずだ。

 べつに川村さんを試したりするつもりはなかった。来ても来なくても、彼女は私をある程度好いてくれているのだろう。これは言ってみれば、私自身を納得させるためだけの身勝手な行動でしかない。

 今日の昼間、ホテルに来るまでの間にあちこちぶらぶらしてみた。知らない土地に知らない駅。自分の日常から離れた場所。そんな場所を一人でうろうろするのはやっぱり心細い。目的があるわけでもないのだからなおさらだ。

 そしていま、知らないホテルに1人でいる。これもやっぱり居心地が悪い。仕事を休んだのは気にならないけれど、温泉に入る気分にもならない。

 そして、そんな状況になると分かってしまう。誰がいればそうじゃないのか。誰にいて欲しいのか。考えるつもりなんかなくても、頭が勝手に思い浮かべてしまう。私の場合は、川村さんのことを。

 そう。正直に言って、私は川村さんのことが好きだと思う。もうだいぶ前から好きだったのかもしれない。

 だけど、付き合うという状態に踏み込む勇気がない。情けないけれど、本当のことだった。彼女が私に告白をするのには何倍も勇気が要っただろう。私はそれに、はいと答える勇気がないというだけなのだ。

 

 そのとき、机の上の携帯がブブブ、と音を立てた。慌てて開くと川村さんからメールが来ていた。時計を見ると19時。今気付いたのなら間に合わないけれど……。

 メールの詳細を開くと、短い文字列が並んでいた。

『○△ホテルは本館ですか、別館ですか?』

 そうか、このホテルは温泉のある本館と、ホテル部分だけの別館がある。ここは確か本館だったはずだ。私は部屋にある案内書と、予約したときのメモを照らし合わせる。確認してメールを返信し、携帯を鞄の上に放った。

 自分のわがままに付きあわせて申し訳ない思いと、わざわざ来てくれて嬉しいという思いがミックスジュースのようにごちゃごちゃにかき混ぜられる。急に自分のしたことが、とてつもなく恥ずかしくなってきた。彼女が来たら、まず謝らなければならない。

 程なく、フロントに着いたというメールが送られてきた。さっきのメールはたぶんバスの中からだったのだろう。本館と別館、どちらでバスを降りるか伝えておかなかった私のミスだった。

 迎えに行くという返信をしたものの、怖い。急にものすごく怖くなる。恥ずかしいなんていう思いは通り越している。川村さんは怒っていないだろうか。もし、もう一度今朝に戻れるならば二度とこんなバカなことはしないだろう。

 エレベーターで一階に降り、フロアに出るとすぐに分かった。あのフード付きのコートと肩上までの髪。

「川村さん」

 おそらく反対側から来ると思っていたのだろう、彼女の後ろから声をかけると、一瞬びっくりしたように体を震わせた。

「先輩……もうびっくりした……」

 川村さんの硬直していた顔がすぐに穏やかな表情を作る。

「ご、ごめん……」

 そう思ったのもつかの間、彼女はただでさえふっくらした頬をますます膨らませて言った。

「こんなところに呼び出して……」

 私は返す言葉がない。

「仕事の話とかだったら、私……」

 膨れた頬はすぐに元に戻る。

 薄い色の唇が震えていた。

「私、許さないですからね……」

***

 夕食は駅の弁当を食べたということだったので、部屋に荷物を置いて温泉に入ることにした。

 平日の夜だからか、浴場は空いていた。私たちが入ったときには女の子を連れたお母さんがいたが、ほとんど入れ違いで上がってしまったので貸しきり状態だった。

「はー疲れたぁ……」

 川村さんは両肩を広げて胸を突き出すような格好をする。着やせするタイプなのか、意外と大きな胸が目に毒だった。

「その格好、女の子としてどうなの……」

 え、と言ってこっちを向く川村さん。

「しませんか?この格好」

 いやする、するんだけど……。パソコン入力で疲れたあとにやるとすごく気持ちいいのも分かるんだけど……。

 彼女はものすごく人に気を使う反面、自分のことはものすごく無防備だという気がした。それがいいところではあるんだけど。

「そういうところが好きなんだけどね」

 私が言うと、川村さんは大きな目で私を見つめる。

「先輩、いま……」

 なんて黒い目だろう、まるで吸い込まれそう。

「先輩もう一回……っ」

 私は急に恥ずかしくなって顔をそらす。

「もう言った」

 川村さんは私の肩を掴んで揺する。

「もう一回言ってくださいっ!先輩っ」

 そう言われるとますます言いづらくなる。

「言わなくても分かってたでしょ……」

 そう、たぶんメールをしたときから。下手したら、今朝私がいない時点で分かってしまっていたかもしれない。

「そりゃ……ちょっとは期待しましたけど」

 じゃあいいじゃないの、と言って逃げると、彼女はその場でまた頬っぺたを膨らませはじめた。あの表情がなんともかわいくて好きだけど、やっぱりもう一度ちゃんと言うべきだろう。

「……み、みほ」

 私は初めて、彼女の名前を呼んでみた。彼女はまた目を丸くして私を見る。

「……」

 頑張れ自分、それくらい言えなくてどうする。

「……好き」

 川村さんは黙ったままで抱きついてきた。華奢な上半身が私の体に密着する。

「先輩……っ」

 私も彼女の体に手を回す。女の手でも軽く抱きしめられる小さな背中。

 しばらく抱き合ったあとで、私たちはどちらからともなく唇を触れ合わせた。

 時刻は22時。この時間でも電車や車の音が聞こえないのは変な感じだった。普段の生活圏を遠く離れていることを意識させられる。

「静かですね」

 川村さんも同じことを考えていたらしい。ときどき近くの部屋のドアが開閉したり、思い出したようにエアコンから空気が吐き出されるほかは、本当に何も聞こえなかった。

「うん」

 これが夏や秋なら、虫の声が聞こえるんだろうか。

 髪を乾かし、歯も磨いてしまった私たちはすることがなかった。

 いや、することはあったけど、どちらもそれを言い出せずにいたんだろう。情けなくも、テレビでも見ようかと言おうとした時だった。

「先輩」

 川村さんが小さな声で呼んだ。

「ん」

 髪を下ろした浴衣姿がなんともかわいく、なんとも非日常的で、なんとも……。

「私……」

 川村さんの黒い瞳が私を見つめる。外の闇と同じくらい、真っ黒な瞳。だけど夜の黒さとは全然違う、深くて暖かい黒だった。

 そこに、落ちていってしまいたいくらい……。

「先輩とエッチしたい……」

 仰向けになった私の上に、川村さんが四つんばいになっていた。

 その小ぶりな手が私の浴衣をずらして下ろす。むき出しになった肩やみぞおちの辺りがゆっくりと撫でられた。

「私も慣れてなくて……良くなかったらすみません」

 川村さんはそう言いながら、控えめに私の身体に触れ続けた。やがて浴衣の生地の上から胸が揉まれ、先端が軽く擦られる。

「ん……」

 最初はくすぐったい。川村さんに見られているという恥ずかしさもある。次におへその辺りに触れられたとき、なんとなく違和感を覚えた。自分じゃこんなところは触らないから、はっきりとは分からなかったけれど……。

 それからもう一度胸の先が擦られたとき、その違和感はもっとはっきりとしたものになった。

 その間にも、おへそや鎖骨の辺りが片方の手で撫でられている。

「あ……」

 そういう、なんでもないはずの部分に触れられても、なんとなくむずむずした感じが湧き上がってくる。

 両方の手で乳首が擦られると、その感覚は爆発的に強くなる。

「うぁ……」

 じんじんとした痺れが両手両足に抜けていき、その痺れが走るたびに、情けない声が漏れてしまう。

「は……ぁ」

 川村さんの手が浴衣の布をどけた。目の前に、固くなった自分の乳首が晒される。恥ずかしくて気が変になりそうだった。

 白い指が、直にそれに触れる。少しだけ伸ばされた爪と指の腹で交互に擦っていく。

「あ……ぁっ」

 自分のものとは思えない、高くかすれた声が次々に漏れる。

 川村さんの濡れた瞳と私の視線が合う。

「せんぱ……佳乃ぉ」

 彼女は突然私の名前を呼んだ。呼び捨てで、それもすごくエッチな表情で。甘えるような声色で……。

 ヒクンとお腹の筋肉が縮む。

「あ……は…っ」

 全身に鳥肌が立って、涙が勝手に零れ落ちる。

「佳乃……好き……っ」

 川村さんの指と声が私を責める。お腹の内側まで鳥肌が立っていくみたいな感覚に、頭が真っ白になる。

 片方の手がするりと私の股に潜り込む。

「だ、だめ……」

 ぬるりとした感触が、硬くなったところを撫で上げた。

「ひぁ…っ」

 そのまま指は私の中へ挿し入れられていく。

「だめ…美穂…」

 お腹の裏が控えめに、そしてだんだん速く擦られる。

「だ……ぁ…っ」

 そんなに性欲が溜まっていたんだろうか。

 それとも、好きな人に抱かれるというのはこんなにすごいものなんだろうか。

「美穂… みほぉ…っ」

 何も考えられない頭で彼女の名前を呼び、その身体に抱きついた。

 お腹の中で動く、美穂の白い指。その持ち主の名前を呼びながら、私のお腹は情けないくらいあっさりと収縮しきってぐったりと戻り、その後はもう動けなかった。

***

「先輩っ 先輩起きてくださいっ!」

 美穂に揺すり起こされる。時計を見ると6時だ。なんでこんなに早くと思ったけれど……。

 そうだ、ここは自分の家じゃないんだ。会社まで電車で一時間ちょっと、加えてホテルから駅までのバスは待ち時間がある。今から用意して出てもぎりぎりだ。

「ちょっ…あれ、目覚ましかけておいたはずなのに……」

 家から持ってきた目覚ましはベッドの下に転がっていた。

「先輩自分で止めてましたよっ」

 そう、目覚ましはいつもより早い時間にかけても止めてしまう。あれはいつもどおりの時間に起きるためのものなのだ。

 美穂はもう着替え終わって、荷物もまとめてあった。

「美穂、先に行きなよ。二人で行くより怪しくないし」

 私が言うと、美穂はまた口を尖らせて抗議した。

「……いえ。せっかくだから一緒に行きましょう」

 なにがせっかくなのか分からなかったけれど、とにかく急いで着替えればまだ間に合う。

 

 大急ぎで着替えて簡単なメイクをし、バスに飛び乗ったのは7時前だった。これなら8時半頃には会社に着けるだろう。

 美穂は何時から起きていたのか、バスも電車も寝っぱなしだった。おかげで電車を降りる頃には髪に変な癖がついてしまっていたけど、どうせ結ぶのだからまあ問題ないだろう。

 たった一日来なかっただけの駅と会社が、なぜかずいぶん違って見えた。

 少しずつでいい、これからも少しずつ、いろんなものが違って見えるように生きていきたい。

 きっとできる。私は彼女にそれを教わったのだから。そしていまは、彼女が一緒にいてくれるのだから。

 会社の入り口で追い抜いていった林が、意味ありげなニヤけ顔を私たちの方に送っていった。

 階段の前を登る、美穂の太めの脚を見ながら、心の中でお礼を言った。

 ありがとう、美穂。そして……

 これからもよろしく!




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