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 夜の10時ころ、静まり返った学生寮の中、私の部屋のドアを誰かが叩いた。
 誰だろうこんな時間に。
 冬休み、しかも年明け早々に訪ねてくる人の心当たりはない。寮内に残っている学生自体がほとんどおらず、1年中でいちばん寮内の人口が少なくなる期間だった。
 
「はい、誰?」

 私はドアを開けずに声をかけてみた。
 ださい部屋着姿ということもあったが、多少は警戒もあった。

「私、杏子」

すぐに、高すぎず低すぎない女の声が答えた。

「え?」

 慌ててドアを開けるとそこには、思いがけない人物が立っていた。
杏子という名のその人は、背格好は私と同じくらい。年齢はたぶんかなり上。もちろんこの学校の生徒ではない。
 去年の冬に知り合ってそこそこ親しくしていたが、それは長くなるので今は置いておく。

「どうしたの!? ていうか玄関閉まってなかった?」
「さっきまでは開いてたわ」
「さっきって?」
「さあ、1時間くらい前かしら」
「1時間も――」

 何をしていたのかと聞こうと思ってやめた。
 誰かに会っていたのかもしれないし、杏子はこういう個人的な質問には答えたがらない。

「ちょっと話をしたいのだけど、いいかしら」
「あ、ごめん、入って」

 頭の中を切り替えて、彼女を部屋に招き入れてドアを閉めた。
 杏子は表情を見せないから気持ちが読み取りにくいけれど、立ってする話でもなさそうな感じだった。

「夜遅くに悪いわね」
「ううん、いいけど。よく覚えてたね、ここ」

 杏子は少し笑って、覚えてるわ、と言った。
 薄めの唇が左右に引かれる笑い方が、いつ見ても特徴的だった。上品ではあるけれど、何か不吉な印象も感じさせられる。少なくとも乙女の笑いという感じではなく、女の笑いという感じだと思った。
 普段、他人の口をこんなに意識して見ることは少ないけれど、杏子の口にはどうしても注目してしまうのだった。



 私はカップを2つ持ってキッチンへ行き、1つのティーバッグで2人分の紅茶をだした。ケチと思われるかもしれないが、よほど濃いのが好みでもなければ普通はこれで十分だ。私なんか3回使うこともある。

「話ってなに?」

 私は杏子のダウンの上着をハンガーにかけ、勉強机からイスを引き離してまたがり、背もたれに両腕を乗せて杏子を見た。
 杏子はベッドの端に座り、また例の笑みを浮かべてから言った。

「2つあるんだけれど、どっちからがいい?」

 珍しくいたずらっぽい声の調子で言う。
 こんなときの杏子は年齢不詳なかわいらしさを持っていて、そのせいもあって私は彼女の歳がいまだによく分からないでいた。言葉使い以外に、年上だとはっきり認識できるような点は、実はなかった。

「いい事と悪い事ってこと?その言い方は」
「そうね、そうかもしれないわ」

 膝の上で手を合わせ、背すじを伸ばして座る杏子に、悪い事、と前置きされるような話はできれば聞きたくない。なにか尋常ではないレベルの事だと言う気がしてしまう。

「じゃあ、いいことから」
「分かったわ」

 杏子はふふ、と小さく笑い、じゃあいいことから、と言った。

「新年の挨拶をしに来たのよ。あけましておめでとう、香織」

 ああ。
 こういうところが、彼女のいいところなのだ。
 なにかのついでかもしれないが、わざわざ出向いて挨拶をする、そんなことに杏子の律儀さと人懐こさを感じる気がした。

「あけましておめでとう、杏子。今年もよろしくね」
「ええ、こちらこそ」

 私は嬉しくもなんだか気恥ずかしくて、少し視線を逸らした。
 ちょうど、杏子が座っている辺りを見ていた。ベッドの上の布団と、杏子のジーンズが接している部分を見ていると、なんとなくどきりとした。
 なんというか、それは例えば頭と足の裏のように、接し合うはずのない物同士のはずなのに。

「それで、もう1つは?」

 私は視線を杏子の顔に戻して、あまり気構えないようにして聞いた。悪い事とはなんだろう。

「もう1つはね、私がここへ挨拶しに来たことと関わりがあるわ」

 遠まわしな言い方だった。これだけでは分からない。

「それで悪い事なの?」
「……まさか引っ越すとか?」

 杏子は嬉しそうに唇を引き伸ばして、いいえ、と首を振った。

「むしろ逆。今は遠くへ行きたくはないから」
「この寮に住むとか!?」

 それ聞いた杏子がおかしそうに笑うので、自分でとんちんかんなことを言ったと気付いた。
 私が勝手に言った引越しという言葉に、私自身の考えが引っ張られてしまったみたいだ。まあよくあることなんだけど……。

「あなたは真面目そうに見えるのに、ときどき本当に面白いわね。そういうところが好きだと、いつも思うわ」
「面白いは余計、私はいつも真面目な――」

 杏子の言葉の前半部分に反射的に反応してしゃべりだしてしまったから、後半部分を聞いた私の頭がそれを意味に置き換えたとき、私は自分でもわざとらしいと思うくらいに固まってしまった。

「……ふふ」

「えっと、あれ待って、それはその、どういう……」

 あああ、バカだ、私。
 好き、あれ、なんだっけ……。
 とにかく日本語としての意味はもちろん分かってるのに。後は冗談かどうかの問題しか残ってなくて、その点、杏子にしてはかなり冗談めかした言い方をしてくれたのに。

「素直な人ね。あなたが気になるという意味よ」
「き、気になるって?」

 想像していなかった話題に、私はとにかく、分かりやすい事実を、それを説明してくれる言葉を杏子に求めてしまう。それをはっきりさせる事が常にいいことだとは限らないのに。
 特に、今回の回りくどい表現は私への配慮だっただろうに。

「出来合いの言葉で言えば、恋して慕っているということかしら」

 杏子ははっきりと言った。
 彼女がそんなふうに思っていたなんて、完全に予想の外だった。
 悪いことなんかじゃない、杏子みたいな魅力的な人に好きだと言ってもらえることが悪いことであるわけがない。

「ありがとう、正直嬉しい。でも私……」
「ええ」
「ごめん、私、好きな人が……」

 杏子はゆっくりと息を吐いた。私は彼女の顔を見られなかった。

「そう。それは残念だわ」

 杏子はそう言って静かに笑った。私は下を向いていた。
 少し、服の繊維が擦れる音がした。

「嫌でなかったら……」

 私ははっとして顔を上げた。杏子が立ち上がって出て行くものと思っていた。

「どんな人だか、聞いてもいいかしら」

 本当に勝手な話だけど、それは嬉しい言葉だった。
そのまま杏子が出て行ってしまったら、私は次にどんな心持ちで彼女に会えばいいのか分からなかっただろう。
 ひっくり返せば、杏子にも同じことが言えるはずで、私との関係に応急処置を施しつつ、私が苦にならずに話せることを質問してくれた。
 できた人だな、と思う。

「嫌じゃないけど……」

 いいの、と聞くつもりだったのに尻すぼみになってしまった。でも伝わりはしたようで、杏子はゆっくり、ええ、と言った。

「え、と、3年の先輩で、部活の先輩なんだけど……」
「ええ」

 杏子は静かに聞いていた。

「あ、好きって言っても片思いだから……。彼女がいる人」

「そう」

 杏子は小さな声で言った。
 その後しばらく、私たちは2人してとも黙っていた。

「つらい?」

「ときどきね。でももう卒業しちゃうからさ、その先輩も彼女も」

 実質3年生の授業は終わっているようなものなので、3年の3学期は自由登校になる。

「ちょうど良かったな」

 本気でそう思ってた。
 ときどきと言ったけど、心が結構疲れていた。3年になって、受験勉強をするときまで今の状態が続かないことは、先輩と付き合えるその次くらいに幸福な結末じゃないかと思う。

「伝えないの?」

 杏子が少し顔を斜めに向けながらこっちを見た。

「伝えないよ、だって彼女いるもん」

「そう」

 それはずっと決めていたことだった。
 断られるのが目に見えているんだから、自分の心の平穏を守りたいという打算的な理由も大きかったけど、それが悪いとは思わない。
 好きになるならないを自分で決めることはできないけど、そのあとの行動は自分で決められる。それなら、少しでも自分が傷つかない選択肢を選びたい。

 ふと、ある疑問がわいてきて、私はそれを抑えられなかった。

「杏子は……」
「もし私に付き合ってる人がいたとしたら……」

杏子は少し間を置いて言った。

「気持ちを伝えるかということ?」

「うん、 あ、ていうかごめん、なんかこの質問」
「ごめん、何聞いてんの私……」

 背もたれの上に組んだ両腕の中に顔を入れて目をぎゅっとつぶった。
 くす、っと杏子が笑った声が聞こえた気がした。物音かもしれないし、あまり確信はなかった。

「ばかね」

 私は顔を上げて杏子の口元を見た。
 杏子の声はやっぱり笑っていたけど、その心と彼女が発した言葉の意味はよく分からなかった。

「あの……」

「待って、先に答えさせて頂戴」

 杏子は軽く手をあげて遮ると言った。

「伝えたわよ、もちろん。同じことを」

 そうなんだ、正月から告白しに来る杏子らしいと言えばらしい。
 少し嬉しい。いや、だいぶか……。

「どうしてだか分かる?」

 私は首を左右に振った。
 同じ状況で、私は伝えないことを選んだ人間なんだから、分からなかった。

「それはね」

 すうっと杏子はその唇を左右に薄く引っ張って笑う。

「知っていて欲しいから」

 もしかして、これって杏子の作戦だったんじゃないか。
 それくらい、今の言葉は彼女に似合わないくらいいじらしくて、ドキッとさせられた。

「でも……」
「わったし……」

「ん?」

 杏子はこっちの反応を面白がっているような様子で鼻を鳴らした。

「嬉しいけど……」
「杏子の言葉になんて返せばいいか分かんないっていうか……」

 なんだか舌が上手く動かなかった。
 こんな事をいわれるのは初めてで動揺してるのは間違いないし、ひょっとして赤くなってるかもしれない。耳を触って確かめたいけど、それをやると杏子にばれてしまう。

「べつになんて言っても構わないわ」
「何を言うかは私の勝手だけれど、何を答えるかはあなたの自由だもの」

 相変わらず薄く笑っている杏子の目は、ひょっとして私の心を見てるんじゃないかと、馬鹿なことを考えてしまう。それくらい、彼女の言葉は雑音を含まずに、私の心の中に直接意味を置いていく、そんな錯覚さえした。

「もちろん答えないのも自由よ」

 そういえば、目の前の杏子が楽しそうなのに少し驚いた。
 演技かもしれないけど、彼女があの笑い方をするのは大体本当に楽しんでいるときだと思う。

「なんか、楽しそうだね」

「え?」

 杏子は目を見開いたかもしれない。
 突然変わった話の角度に一瞬驚いたようだった。

「あ、悪い意味じゃないよ? 普通に……」

「それは楽しいわ」

「なんで?」

「だって好きな人と話しているんだもの」

 杏子はまっすぐにこっちを見て言った。
 やっぱり慣れていないせいで、こうストレートに言われるとドキンとしてしまう。

「でも、その……」

 さっきからどうしてこう、はっきり言えないような疑問が頭に浮かんでくるんだろう。そしてどうしてそれを言いかけてしまうんだろう。
 杏子の答えが知りたいから、なのは間違いないんだけど。

「実らない気持ちだということ?」

 杏子は実に察しが良くて、前もって台本でも読んでいるみたいに、私の言葉を理解してくれる。

「いいのよ」

 私が小さく頷くと、杏子は短く、でも丁寧な口調で言った。

「変な例えで悪いけれど」

 杏子は少し切って私を見た。

「うん」
「お腹がすいて、そこに好きな食べ物があったとするでしょう」
「それをもし、1人前でなくて半人前か、もっと少ししかもらえなくても、あなたはそれを食べるでしょう?」

「だろうね」

杏子は満足げに笑って、そういうことよと言って立ち上がった。

「そろそろお暇するわ」

時計を見ると11時前だった。気付かなかったけど、小一時間話していたことになる。

「うん、今日どっか泊まるの?」

 彼女は確か寮の管理人と親しかったはず。大方そこに泊まるのが、彼女が今日ここに来た理由の1つだと思っていた。
 が、

「いいえ、帰るわ」

 茶色い皮のブーツを履きながらそう言った。

「え!?」
「だってもう電車ないよ?」

 杏子が住んでいるのは電車の駅で5つ先だが、終電は確か22時45分頃だったはず。ここから駅まで15分はかかるし、どう考えても間に合わない。

「歩いていくから平気よ」

 事も無げにそう言った。
 なるほど、確かにかかとが低めで歩きやすそうなブーツではあるけど…。

「危ないよ、道真っ暗でしょ?」
「線路沿いの国道は明かりがついてるわ」

 いや、だけど確か50メートルに1つくらいだ。国道沿いは家や店が点々とはあるけど、ほとんど何もない区間もある。いや、それ以前に、ここから5つ先の駅までは10km以上あるはずだ。
 昼間なら歩けない距離じゃないけど、真冬の夜中に女1人で歩いて帰ると言われて送り出す人間は、この地域には多分いない。
 
 泊まる先の当てがないならどうしてこんな時間に……。

「杏子、だめ、泊まっていきなよ」

 私は杏子の行動に疑問を持ちながらも、その手首を掴んだ。
 ドアノブに手をかけようとしていた彼女はこちらを振り返り、私の顔が近かったので一瞬身を引くのが分かった。

「悪いわ」

 ぽそりと、あまり唇を動かさずに言った。
 まだ顔が近い。私も、手首を放して前に出ていた足を引いて戻した。

「今送り出したら心配で寝れなくなっちゃうよ、そっちの方が悪いって」

 杏子が足を踏みかえて体をこっちに向ける。

「私が男だったら泊めたりしないでしょう」
「それはそうだけど」

 杏子が言わんとしていることは分かった。
 自分を性愛の対象として見ている人間を泊めるのかということだろう。こんな閑散とした状態の寮では、それこそ殺人事件があったって気づかれないに違いない。

「同じよ、私も」

「杏子は人が嫌がる事を無理にしたりしないでしょ」

 それは今までの杏子との付き合いの中で、なんとなく分かってきていた。

「そうね、しないわ」

 そう、こう言い切れる人は少ないと思う。
 この頑なさには、何か経験からくる理由があるのかもしれないけど、さすがにそこまでは分からなかった。

「でも、あなたには危ない事をして欲しくないわ」

 杏子は人になにかを求める発言をあまりしない。アドバイス的なことも、求められなければ言わない。基本的には自分の事を話して相手の事を聞くだけだ。
 だからこういう言い方は珍しかった。

「他人をほいほい泊めるなってこと?」

「あなたを好いている人は特にね」

 それは、杏子の中の、嫉妬とか独占欲とか、そういったものからくる心配かもしれなかった。でも本来、人間の気持ちは欲からくるものだ、全部。

「ありがと、他人を泊めた事はないけど、気をつける」

「ええ」

「で、そう言ってくれた杏子だから、泊めるの」

 杏子は黙っていた。

「私の人を見る目は、今に限っては間違ってないでしょ?」

 あはっと、杏子が珍しく口をあけて笑い声を出した。
 我ながら、上手いこと理屈をこねたと思う。

「それじゃ……」
「あなたが良ければひと晩だけ、お世話になってもいいかしら」

 杏子が、股の前できちんと手をそろえてそう言った。

「うん、どうぞ」
「ありがとう」

「でもね、香織」

 杏子は履いたブーツを再び脱ぎながら言った。

「あなたが何を嫌がるか、言ってくれなければ私には分からないわ」

 急にこっちを向いた杏子に手を握られた。

「きょう――」

 お辞儀をするように上半身を折り、杏子の頭がその手に覆いかぶさり、柔らかい感触を手の甲の側に感じた。
 彼女の長く作った前髪に隠れた手は見えないけれど、あの薄い唇がそこに触れたのは間違いなかった。

「だから、嫌な事はそう言って頂戴」

 顔を上げた杏子が、例の笑いを浮かべて言った。

 やっぱり、屁理屈では杏子にかなわないと思った。




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