□
□
□
ターミナル駅の改札を出ると、時刻は夜9時過ぎだった。3年から始まったゼミはなかなかハードで、夏休みが明けてからは毎週のように帰りが遅かった。大学から近くに住んでいる私なんかはまだいいものの、県外から通っている学生は大変だろう。
でも逆に、こうなると一人暮らしの大変さがよく分かる。べつに自炊する時間がないわけじゃないし、ちょっと遠回りしてスーパーに寄れないこともない。だけどそのちょっとが億劫なのだ。
4年になって、これに就職活動と卒業論文が加わったらどうなっちゃうんだろう。いや、そんなのまだいいのかもしれない、大学3年も4年も、どんなに忙しくたってそれは1年間しかないのだから。就職して、もしかしたら仕事がものすごくハードで、こんな生活が5年、10年……
「あああっ!」
私は頭をぶんぶんと振って、雲のように膨らんでくるいやな考えを追い出した。とにかく必要な買い物をして早く帰ろう。スーパーに行くことは妥協して、乗り換えする私鉄の駅までの途中にあるコンビニに入る。
アパートは駅から近いことは便利なのだが、その駅前はコンビニもない不便な場所だった。家は住んでみないと分からないものだ。
牛乳と豆腐だけ持ってレジに並ぶ。いつもはフリーター風のお兄さんが立っているのに、なぜか今日は同い年くらいの女の子だった。
「290円のお釣りになります。はいどーぞお」
女の子店員はそう言って、私の前の男性客にお釣りを手渡した。続けて私が置いた物のバーコードを読み取って袋に詰めていく。小柄な子だな、高校生だろうか。そんなことを思いながらお金を払って袋を受け取ると、彼女はお釣りをくれた。
「721円のお釣りになります。はいどーぞ」
どうやらこの言い方は彼女の癖らしい。実際の年齢は分からないけど、幼く見える外見と妙に合っていて、思わず噴出しそうになってしまった。慌てて出入り口へ向かった私を、ありがとうございましたーというのんびりした声が見送ってくれた。
翌週、やはりゼミで遅くなってコンビニに立ち寄ると、レジにはまたあの女の子が立っていた。先々週までは見かけなかったから、シフトが代わったのかもしれない。
私は同じように牛乳と豆腐をレジに出した。味噌汁は豆腐じゃなくてもよかったけど、同じ物を出したら彼女がどんな反応をするのか気になった。ひょっとして私のことを覚えているだろうかという気持ちも少しはあった。
けれど彼女は自然な動作でバーコードを入力し、それらを袋に詰めてしまった。そりゃそうだ、こっちから見れば店員は彼女一人だけど、彼女から見れば私なんか何十人何百人とやってくるお客の中の一人なのだ。覚えてるはずがない。
それが当然だと思いながらも、それを少し残念がっている自分がおかしかった。
「721円のお返しになります。はいどーぞお」
先週と全く変わらない言葉に送られて、コンビニを後にした。
***
「9時から10時の間なら、まだ高校生の可能性もあるね」
学食の向かいの席に座った好美が言った。例のコンビニの店員のことだ。
昼休みを過ぎた食堂はがらんとしていて、私達のほかに数人が離れて座っているだけだった。
「10時からなら未成年はないと思うけど」
そもそも女の子を置かないよねその時間帯は、と言ってお茶を飲み干した。そのままプラスチックの湯飲みを持って席を立ち、お茶を入れて戻ってきた。
やっぱり高校生かな、私よりは3,4歳下には見えなくもない。そんなことを考えていると、
「ね、ところでさ、前言った合コン」
さっきまでのやや気だるそうな態度が嘘のように、楽しげな声で好美が言ってくる。
「ん、ああ」
逆に私ははっきりしない反応を返してしまう。合コンか……。
「来週の金曜だって。早知子も行けるでしょ?」
合コン。言葉だけはよく聞くそのイベントに、私は今まで行ったことがなかった。だから期待が全くないといえば嘘になるけど……。
「うん、行けるよ」
合コンに行きたいかと言われれば、あまり行きたいとは思わなかった。もちろん恋人は私だって欲しい。でも合コンという言葉が持っている、得体の知れない不自然さのようなものがどうにも好きになれなかった。
「オッケー」
もちろん、そんなのは勝手な話だって分かってる。3年ともなれば大学内での出会いは減ってくる。段取りを整えてもらって誘ってもらえることに感謝しなきゃいけないはずなのだ。
「あと二人は予備校のときの友達だけど平気でしょ?」
「うん、ありがと」
好美の友達なら大丈夫だろう。イマドキの外見だけど、やることはちゃんとやるし、知り合いが多そうだけど付き合う相手を結構選んでる、というのが2年ちょっと付き合ってみての彼女の印象だった。
「ん。じゃーまたゼミで」
好美はそう言うと席を立ち、カウンターにトレーを戻して学食を出て行った。
ゼミの帰り、私はまたコンビニへ行った。あの店員の声を聞くのが楽しみになっていた。べつに彼女が高校生だって大学生だっていい。のんびりした声でお釣りを渡してもらえると、心の中の何かが満たされるような気持ちになるのだった。
しかしその日はちょっとした事件があった。酔っ払った若い男が彼女に絡んでいたのだ。
「だからぁ、このあと遊ぼーって言ってるだけじゃねえかぁー!」
他の客がいる間は、男を無視してレジ打ちに集中していた彼女だが、それが済んでしまうとすることがないようで、黙ってレジの傍に立っている。奥から店長らしきおじさんが出てきたが、男に一喝されると何も言えなくなってしまった。
「ねーちゃんは恋人いんのかよぉ?」
女の子の顔を覗き込むようにして言う。
「べつにいません」
そっぽを向いて短く答える彼女に、男はしつこく話しかける。
何か言おう、何でもいい、彼女の助けになるようなことを、何か……。そう考えながら、そろりそろりとレジの方へ近づいた。
そのとき、
「もう帰ってください。警察呼びますよ」
彼女はっきりした口調でそう言った。すごいと思った。体勢は逃げ腰だったけど、顔はちゃんと男の方を向いている。
「警察だぁ……?」
男は一瞬考えるように動きを止めたが、やがて大きな声で笑い出した。
「なんで警察なんだよぉ、え?俺が何か悪いことしてるかァ?」
彼女はそれっきり黙っていた。小柄な体が余計に小さく見える。
私は我慢ができなくなって、咄嗟に携帯を取り出すと、110番を押してかけた。すぐに男の人の声が電話に出た。
「あ、もしもし!あの、コンビニに変な男が……」
その声を聞いて、レジ周りにいた3人が私の方を見る。ここに人がいることに誰も気がついていなかったのかもしれない。
「えっと場所は……」
こういうとき、場所が説明しづらい。ここは確か私鉄の駅のそばで……。
「おい!何かけてんだてめぇっ!」
それを聞いた男がフラつきながらこっちへ向かってきた。私は内心ビクビクしながら、陳列棚の間を携帯を持ったまま逃げる。
「○○駅前店ですっ」
そのとき、店員の女の子が大きな声で言った。この店舗の名前だろう。私はそれをそのまま携帯に向かって繰り返す。
「このやろうっ!逃げられると思うなよぉーっ」
酔っ払っているとはいえ相手は若い男だ。彼の言うとおりだろう。棚1つを挟んで私が店の奥側に、男が出口側にいる。走って外に出ることも難しい。このまま時間を稼げれば……。
そう思ったとき、男がしびれを切らして走り出した。私は棚を回るように逆へ逃げるが、運が悪いことにヒールの高めの靴を履いていた。男の手がコートの裾を掴んだのが分かる。大きな手に肩を掴まれ、思わず身を固くする。
飛び出してきた店長が男の後ろから羽交い絞めにするものの、力の差は大きそうだ。しかし。
男の手が私の首に回されようとしたときだ。店員の子が走ってきて、私の身体の横をかすめるように男を蹴り上げたのだ。
「うごッ」
声というより空気を吐き出すような声を漏らして、男はその場に崩れ落ちた。男の震える両手が押さえる場所を見て、私は彼女がどこを蹴ったのか知ったのだった。
それからすぐに警察官がやってきた。男は連れていかれ、私たち3人が状況を質問された。私は店の人間ではないので先に返されてしまい、女の子と話をする時間は結局ほとんどなかった。
***
翌週の金曜日、課題にてこずってしまった私は急いで合コンの待ち合わせ場所に向かった。好美が待っていてくれ、他のメンバーは先に店に行ってしまったあとだった。
「ほんとにごめんっ」
好美の後について歩きながら謝った。先に行ってくれればよかったとは言えない。私は店の場所を知らないからだ。
「大丈夫、まだ5分しか経ってないんだから」
べつに急ぐふうでもなくそう言った。
「というかね。さっきチラッと見たら微妙な感じだったんだよね」
相手の男性陣のことだろうか。けれどそれならなおさら、女の子を2人にしておくのは悪いのではないだろうか。
「もちろん私はってだけね。他の子は分かんないしさ」
早知子もね、と言って笑い、店の看板を確認した。
「あ、ここだ、ここ」
席に通され、好美に倣ってとにかく挨拶をして座った。男女が向かい合って座るのかと思っていたけど、どうやら違うらしい。私と好美の隣には男性2人が座っていて、男女2人ずつが向かい合う形いになっていた。
私と好美は渡されたメニューを見て慌てて飲み物を追加で頼む。全員にグラスが行き渡ったのを確認して、目の前の男性が口を開いた。
「じゃあ今日はみんなよろしくー!乾杯ー」
それぞれがグラスをぶつけ合ってから口に運ぶ。目の前の男性は幹事らしい。
ほとんど一気にグラスのビールを飲み干してから、またすぐに言った。
「じゃあまあ、1人ずつ自己紹介しよっか」
自己紹介は彼から始まり、時計回りに進んだ。男、男、女と続き、向かいの奥に座っていた小ぢんまりとした女の子が口を開く。
「えっと……山野美佳です。同じ○○大学3年です。よろしくお願いします」
緊張しているのか、少しうつむき気味でそう言って頭をぺこっと下げた。軽い拍手が起こって次の男性に順番が回る。
こういうときの気持ちをなんと言えばいいんだろう。いやなことが近づいてくる。けどそれは周りに自分を知ってもらうチャンスでもあるから、例えば注射の順番みたいに嫌なだけの待ち時間ではない。
いや、そんなことより何を言おうか、そう思っているうちに私の番になり、結局いつも、何も考えていないままの自己紹介をするのだ。
「○□大学3年の中原早知子です。えっと…あ、今日は好美から誘ってもらいました。よろしくお願いします」
好美の友達らしい向かいの女の子2人にも顔を向けて言った。さっきは俯いていた奥の子もこっちを見ている。そこで私ははっとした。
あ、あれ……?
あの子、どこかで見たことがあるような……。
人の顔って、見た覚えはあるのにそれがどこの誰だったかは思い出せないことがある。今がまさにそうだった。
嫌いな顔じゃない、むしろとても好感が持てる顔で、何か良い記憶と一緒に覚えているような……。
思い出せない気持ち悪さを残したまま、隣の好美で自己紹介の時間は終わった。食べ物を頼みながらの雑談になる。微妙な感じだったと言っていたのを感じさせない好美の態度に感心しながら、私はチラチラと奥の女の子を目で追っていた。ピザのひとかけらを手と箸で器用につまんで食べながら、こっち側の男性と話している。
「休みの日とかって何してるの?」
彼女の手前のもう一人の女の子はさっぱりした感じの美人で、好美と全然タイプは違って見えるけれど、話し慣れた感じがよく似ていた。
「私は映画見たりしてますね、あとはゲームしたり」
「お、そうなんだ、今度映画見に行こうよ」
男性側も反応しやすいせいか、手前の子に話しかけることが多い。もっとも奥の彼女は食べてるせいなのかもしれないけど。
「美佳ちゃんは?休みの日何してる?」
と思っていたら、私の隣の男性が声をかけた。
「私は……なんだろ、バイトしてたり、ごろごろしてたり」
ある意味すごい、と思ってしまった。本当なんだろうけど、異性の前でそこまで包まず飾らずものを言ってしまえるなんて……。や、バイトはいいとしても、ごろごろしてるなんていうのは、私が聞かれたらきっと……
「お二人は休みの日とかは?」
そう思っていると、横の話題が飛び火して移ってきた。まず好美が口を開く。
「私は慶ちゃんと似てるかなぁ、よく映画行ってるもんね」
向かいの席の美人は中野慶子さんだったっけ、好美は彼女の方を向いて言った。
「あ、じゃあ今度行きましょう」
「ええぜひ」
ほとんど同じやりとりを数分前に聞いた。
「中原さんは?」
向かいの男性が聞いてくる。
「私は、課題やったり…、ちょっと出かけたり…」
ほら。ああ見栄っ張り!私の見栄っ張り!
ちょっとでかけるって何。友達と約束があるなら別だけど、一人でいる休日に食料を買いに行く以外で外に出ることなんかあまりなかった。
散歩くらいならするけれど、それを出かける、といっていいかは疑問だし。
「課題かあ、二人は同じ学部なんだっけ?」
「美佳ちゃんは何のバイトしてるの?」
2人の男性がほとんど同時に発言した。片方は私に、もう一方は奥の山野さんに対してのものだ。
「はいそうです」
「いまはコンビニです」
私と山野さんの返答もほとんど同時だった。2人の声が混じって聞こえたとき、私はやっと思いだした。そうだ、彼女は……
山野さんはあのコンビニの店員の女の子だ!!
女の子というのは髪型と服装で印象が変わる。
コンビニ店員の姿しか見たことがなかった私が、私服の彼女を見て気付かなかったのも無理はない。いや、実際のところはまだ半信半疑だった。
だけどパーカーの形のセーターを着て、下ろした髪は肩くらいまでのくせのあるボブ。そのやや幼い外見と、のんびりした声は確かによく似ていた。
けれどそのことを確かめる機会がないまま時間になった。
男性陣と同じくらい、いやひょっとすると彼女とアドレス交換をしたいくらいだったが、考えてみれば一言だって言葉を交わしていないのだ。どう考えても不自然だと思ってあきらめた。
***
次の週の土曜日の午後、同じターミナル駅にあるファーストフード店で、3人の女性が話をしていた。
早知子の友人の好美と、その友人で合コンにも来ていた慶子、山野美佳の3人である。 通路側に座っていた好美が口を開く。
「早知子のこと?」
美佳が頷く。
「確かそう、あの髪がショートカットの……」
そう説明すると、好美はドリンクの紙コップを手に取りながら言った。
「うん、早知子だね。あの子がどうかした?」
昼時を過ぎてやや空いてきた店内は、大学生くらいの若者が多いこの街にしては珍しく静かだった。ときどき母親仲間とその子供たちのやりとりが聞こえてくる以外は、外から聞こえてくる喧騒の方がずっと大きい。
「あれからなんか言ってた?合コンのこととか……」
4人がけの席の奥に座った美佳がそう聞いた。前の週と同じパーカー型のセーターを着ている。
「べつに?なんで?」
美佳の隣に座っている慶子も顔を横に向けた。
「私、あの人に会ったことあるかも……」
飲み物を飲んでいた好美は意外そうな顔をしてくわえたストローを離した。
「へえ、どこで?」
好美の紙コップがトレイに置かれる。美佳はその辺りを見ながらぼそりと言った。
「コンビニに何回か来てたかも」
慶子もポーカーフェイスながら、興味深げに聞いている。
「よく覚えてるねそんなの」
好美がそう言って笑い出すと、美佳は両手を前に出して抗議するように言った。
「違うんだって、前に酔っ払いが来たときに助けてもらったの!」
「早知子ちゃんに?」
慶子が言うと、美佳は乗り出した身体を元に戻して、
「うん。同じ人だとしたらだけど……」
と言った。
「なんだ、じゃあこの間聞けばよかったじゃん」
好美が言うと、美佳は恥ずかしいような悔しいような表情で口を尖らせた。
「そんな時間なかったし、違ったら失礼じゃん……」
好美はあきれたように、
「美佳はマイペースなところと気にしすぎるところが極端だよねホント」
と言った。
「何がよ」
「普通さー男の前でだよ、休日ごろごろしてるとか言わないでしょうが」
こういったことは日常茶飯事なのか、慶子は残ったハンバーガーとポテトを黙って食べている。
「嘘言ったって付き合ったらばれるんだから同じじゃん」
「そのばれるまでが恋愛なのよ」
さらっと言い切った好美の前で、納得いかなそうな表情を見せる美佳。慶子は食べ終わった包み紙をくしゃくしゃと丸めてトレイの上に置いた。
「好美に聞いておいてもらえばいいんじゃない?」
***
「っていう話だったんだけど、早知子知ってる?」
その話を聞いたのは翌週の初めだった。山野さんが聞いたという話は、私が覚えているコンビニでの出来事と一致していた。やっぱり彼女があの店員の女の子だったんだ。しかも彼女は、私のことを覚えてくれていたことになる。
「うん、それ私……」
「え!ホントなの!?」
好美が驚くのも無理はない。ちょっとできすぎた偶然だと自分でも思う。興味を持っていた相手とたまたまあんな場所で会うなんて。これが男女だったらお互いに運命的なものを感じて、そのまま大恋愛に発展するのかもしれない……。
「助けたっていうのは違うけどね……どっちかって言うと……」
助けられたのは私だったから。と言おうとしたが、彼女の行動をどこまで話していいのか分からない上に、話の本筋とは関係ない気がしてやめた。
「私てっきりあの子の勘違いだと思ってたよ」
「私もひょっとしてそうかなとは思ったんだけどね……」
私がそう言うと、好美は大げさにおでこに手を当てた。
「なんでそのとき言わないの君たちは……」
「だって、酔っ払いの話とかしていいか分からないでしょ?」
私が言うと、好美はすぐに真面目な顔に戻って頷いた。
「ああ、まあそれはそうだね」
「でも……2人気が合うかもよ。なんか気を使うポイントが似てるわ」
私と彼女が?
なんだか全然違うタイプに思えるけど、私よりずっと山野さんとの付き合いが長い好美が言うんだからそうなのかもしれない。
「なんか、お礼にご飯奢りたいって言ってたけど、どうする?」
「え…!?」
思ってもみなかった言葉に思わず聞き返してしまった。あくまで、好美があの子たちとそういう話を話をしたという報告だと思って聞いていた。だから私自身がそこに、あの子にもう一度関わることになるなんて思ってなかったのだ。
「でも、お礼はそのときちゃんとしてもらったよ」
そう言いつつも、私はドキドキしていた。それこそ合コンなんかよりずっと。
「お礼というより早知子と仲良くなりたいんだと思うよ」
「……」
本当に?
本当だったらすごく嬉しいけど、でも……。
「まあ時間あったら会ってあげてよ。変わって見えるかもしれないけどさ」
中身はほんとにいい子だから。と好美は言った。
きっとそうなんだろうな、と思った。好美がそう言うならというのもあるし、私自身、ほんの少しだけど山野さんを見てきて、いい印象を持っていたから。
だからすごく嬉しいんだけど、なんでだろう。
なんで女の子と会うことが、こんなに嬉しく感じるんだろう……。
その答えは分からないまま、彼女と会う当日を迎えた。
***
日曜日の昼下がり、ターミナル駅前の広場は人でごった返していた。少し離れた街路樹の横に2人の女性が立っている。
「そんな服持ってたっけ?」
好美が相手の全身をチェックするような顔つきで言う。
「持ってたよ、去年から着てるし」
パーカーのようなカーディガンを着た美佳が答える。もこっとした質感はいつものセーターと形は似ていたが、ボタンで合わせて着る分、少し大人っぽい上品さがあった。
「合コンのときそっち着てくればいいのに……」
好美はそう言って改札の方を見た。電車が通ったらしく、人の群れが改札から吐き出されてくる。隣にいる美佳も、黙ってそちらを見つめている。
その中から、細身の女性が2人の方へ小走りにやってきて手を上げた。
「ごめんっ、お待たせ…っ」
ショートカットの髪にジーンズとジャケットというシンプルな格好だった。
「相変わらずギリギリ生活だねぇ……」
「ごめんってば」
早知子はそう言うと、美佳の方を見た。
「山野さん遅くなってごめんなさい、今日はありがとうございます」
そう言って軽く頭を下げる。高めの身長と服装のせいもあり、少し年上の社会人のようにも見える。
「あ、いえっ!」
「私こそ急に呼び出しちゃってごめんなさいっ」
美佳も慌てて言ってぺこりとお辞儀をするが、こちらはどう見ても学生。それも高校生くらいに見えそうだ。
「じゃ行こっか」
好美の一言で、3人は並んで歩き始めた。
3人が入ったのは駅から少し離れたところにある、チェーン店のファミレスだった。居酒屋という時間ではなかったのと、ゆっくり話せるという理由からだった。
2時間ほど経ったとき、好美が急用で先に帰ると言い出した。
「2人はまだ居なよ」
好美はそう言うと、自分の分の代金をテーブルの隅に置いて出て行った。
「急用ってなんだろうね」
好美が置いていった硬貨を積み上げながら、早知子が言った。
「なんだろ、好美知り合いが多いから……」
少し考えるような表情をしてから、美佳が答えた。
「だよね」
早知子がそう答えると会話は途切れ、しばらく2人とも黙っていた。通りかかったウェイトレスがグラスに水を注いでいき、早知子はそれを手にとって少し飲んだ。
「合コンのときにね、あの店員さんかなって思ってたんだけど」
「あっ、うん」
グラスを置いて口を開くと、美佳が勢いよく頷いた。
「なんか言い出すきっかけがなくて……」
早知子はごめん、と言って笑った。
「ううん、私も同じ」
「すぐ分かった?」
早知子が聞くと、美佳は笑って頷いた。
「ほんとに!?」
驚いて言う早知子に、美佳が慌てて両手を振る。
「私はいつも私服の中原さん見てたから」
「ああー、そっか」
私は制服だったでしょ、と付け足した。
その短いやりとりだけで、2人の緊張がだいぶ解れたようだった。
「だからむしろ、私のこと気付いてくれたのはびっくり」
美佳がそう言うと、早知子は少し恥ずかしそうな顔をした。
「声がけっこう印象に残ってたんだよね」
「私の声ってそんなに特徴ある……?」
早知子は軽く手を振って否定すると、硬貨の山から1枚取った。
「お釣渡すときにこうやって、はいどーぞって言ってくれるでしょ?」
早知子がお釣りを渡す仕草をする。
「あ、あれはぁ……」
美佳が恥ずかしそうな顔をする。
「あ、変とかじゃないよ?言われると嬉しくなっちゃって」
俯いている美佳を見て、言われるのやだった? と早知子が覗き込んだ。
「ううん、あー恥ずかしい!」
美佳はそう言って両手で顔を仰ぐ仕草をする。実際に顔はのぼせたように赤くなっていた。
「あれ、昔どこかのコンビニで店員のお姉さんがやってたんだけどね」
「うん」
早知子が頷くと、水を一口飲んでから美佳は言った。
「真似してやってみたら、あの方がスムーズに渡せるって思って……」
そうなんだ、と早知子は笑って頷いた。
「ほんとは良くないんだろうけど、言い方とか変えるの」
「そうなの?」
店内は涼しいわけでもなかったが、美佳はカーディガンの襟元を寄せるように掴んで、こくりと首を縦に動かした。
少しの時間をおいて、早知子が言った。
「でも私は偉いなって思うよ」
「え?」
美佳は驚いたように顔を上げる。
「だって、仕事がしやすいように工夫するのはいいことじゃない?」
「仕事って言っても、効率が良くなるとかじゃないし」
美佳が言葉を濁す。
「でもお客さんは増えたよ」
「え?」
そして美佳がまた顔を上げると、早知子ははっきり言った。
「私は山野さんにお釣もらいに行ってたようなものだもん」
***
ゼミの時間はだんだんと伸びていき、大学を出る時間が夜10時近くなることもあった。これだとターミナル駅に着くのは当然10時過ぎ。コンビニで山野さんを見られない日が数週間続いた。
ときどきメールをしたりするけれど、まだ仲のいい友達という程の付き合いはない。コンビニで会ったって話はできないけれど、顔を見て笑って、のんびりした声を聞けるだけで彼女との距離が少しずつ縮まっていくこともあるだろうに……。
携帯の画面を見ると10時10分。好美が言っていたように、山野さんのシフトは10時までなんだろう。10時以降に何度か入ってみたが、いつかの店長さんとフリーターっぽい男性以外は見かけなかった。
コンビニの前を通ると、いつもと変わらない、そこだけ浮き上がるような明るさ。駐車場のところでカップルらしき2人組が話をしている。べつに興味はなかったけど、店内の明かりが漏れて、女の子の方の顔がチラリと見えた。
山野さんだ。
不思議なことは何もなかった。山野さんに彼氏がいることも、酔っ払いの事件があったことで、バイト上がりに迎えに来てもらうことも。事実かどうか、確認するまでもないくらいに自然なことのはずだ。
不自然なのは私の頭だった。この感覚はなんだろう。あまり体験したことのない、嫌な感覚。もちろん、体験したことがなくてもこの歳になれば名前くらいは知っていた。
嫉妬、いわゆるやきもち。
だけどそれは、女の子に彼氏が居た場合に持つ感情じゃない。男の子に彼女が居た場合に持つものだろう。
私は顔が向こうから見えないように車道の方を向き、急いでコンビニの前を通り過ぎた。そのまま走り出し、私鉄駅の構内に駆け込んだ。走ったことで速くなった鼓動、それとは別に、冷たい粘液を心臓にかけられたみたいな感覚が断続的に襲ってきた。
嫉妬?これが…?
そんなはずない、これは何か違う病気なんじゃないか。そう思ってしまえるほど、それは苦しくて不快だった。こんな思いをしたことは生まれてから今日まで、一度もなかった。
部屋にたどり着いた私は電気をつけることもせず、玄関の鍵だけを閉めてベッドに倒れた。こんなとき、どうすればいいんだろう。漫画やドラマで失恋したヒロインを見ても、いままで他人事としか思えなかった。それがこんなに唐突に自分に訪れるなんて。
無意識に、失恋、という言葉を思い浮かべてハッとした。これは失恋なんだろうか。私は同じ女の子の山野さんを好きなんだろうか……。
早く寝てしまいたかったが、ここ最近遅い方にずれつつある生活リズムのせいで、あと2,3時間は寝られそうもなかった。こんな時間があとそんなに…!
目を明けても閉じても、思い浮かぶのは山野さんと、さっき見た光景だけ。もう1分だって考えたくない。私はすがるような思いで好美に電話をかけた。
「珍しいね、こんな時間に」
「ちょっと……。いま大丈夫?」
しばらく無言のまま、受話器からよく分からない物音が聞こえてきた。物を片付けているか、携帯を持ったまま動き回っているような感じだった。
「ん、いいよ」
「布団に入った」
電話の向こうから笑うような声がそう言った。好美は相手をしてくれるらしい。
「待って、私も入る」
そう言って携帯を置くと、上着とジーンズを脱ぎ捨ててベッドに潜り込み、腕だけ伸ばして携帯を取った。
「ふう」
「なんか悩み?」
タイミングを見計らって好美が聞いた。
「なんで分かるの?」
いつもの自分ならこんな時間に電話をしたりしない。メールで済ませるか翌日会って話すだろう。聞いてみてからそう思った。
「……なんとなく。で、なに?男に振られた?」
好美は冗談っぽく言ったが、恋愛関係の話題なのは察していたんだろう。私が話し始めるハードルを下げてくれるための一言な気がした。
「そんな相手いないの知ってるでしょ」
私が言うと、アハハと好美の笑う声がした。
「なんでいないんだろうね、不思議で仕方ないよ」
「女の子っぽくないからじゃない」
好美の言葉に、私は抑揚のない声で答えた。
「まだ言ってるの、それ」
好美の声が急に真面目な調子を帯びる。
「事実そうでしょ……」
それはいつからか、私の小さなコンプレックスになっていた。自分が女の子っぽくないような気がして、わざわざ男の子っぽい格好をしてみたりした。いまはそんなことはしてないけど、女の子なんだっていう自信みたいなものが持てないのは昔と同じだった。
「私さ、何度か言ったことあったじゃん」
少し黙った後で好美は話し始めた。
「髪伸ばしてみればとか、可愛い服着てみればとか」
いままでに2度、言われたことがあった。最後に言われたのが1年前くらい。でもその度に私は……。
「でも早知子やらなかったじゃん?」
そう。長い髪やふわっとした服は似合わないような気がして、なんだかんだと理由をつけてはぐらかしたのだ。
「勘違いしないで聞いて欲しいんだけど、やれって言ってるんじゃないよ?」
あれ、と思った。やらなかったのは私だから、私の責任でしょっていう話かと思っていたからだ。
「大事なのはこっちなんだけど、その度に私言ったよね」
そう、好美は毎回こう言ってくれる。
「そんなことしなくても早知子は十分女の子っぽいよ」
「って」
でも私は分からない。私のどこを見て、好美がそう言うのかが。
「私が男なら、私と付き合うより早知子と付き合うけどね」
「まさか……」
だけど好美はお世辞を言うタイプじゃない。1年前を最後にその話が出なくなったのも、好美の言葉を信じて自信を持つようにしてきたからだと思う。
「ホント。ま、いいや、それで?」
そうだ、すっかりいつもの話になってしまったけど、今日話したかったことは別に会ったのを思い出した。でも、友達ってすごいと改めて思う。一時とはいえ、話をしているだけで、気分が明るくなるんだから。
私は自分の気持ちがなんなのか、好美に聞いてみた。山野さんという名前は伏せて、仲良くしたいと思っている相手、という程度の言い方にした。
「なんだ、いたんだそんな相手」
好美は私の話を聞き終えると一番にそう言った。
「そういう相手って言うのか分かんないけど……」
嫉妬なのかが分からない以上、そういう対象として見ているのかどうかもはっきり分からなかった。
「いまの話聞いた限りはだけどさ」
好美は言った。
「好きなんだと思うよ、その人のこと」
やっぱり、そうなんだ。私は山野さんのことが好きなんだろうか。同じ女の子なのに……?
「笑ってくれると嬉しいとか……」
その通りだった。彼女の笑顔を見て声を聞くためにコンビニに寄っていたんだから。
「あとは相手に触りたいとか」
「……」
それはどうだろうか。
「思わない?」
「……分かんない」
山野さんに触りたいと思ったことは、いまのところはないような気がするけど……。
「じゃあ触られるのは?」
「え?」
山野さんに?
「相手に触られるのを想像すると嫌?」
嫌、ではない。全然。むしろ……。
「嫌じゃないよ」
「ふふ、でしょ」
結局1時近くまで電話をしたけど、この件について好美が最後に言ったのはこうだった。
「伝えてみなよ。ダメでもたぶん早知子の損にはならないと思う」
***
11月3日。文化の日。この日に学祭が催される大学は多く、私達の○□大学もその一つだった。特にサークルにも所属していない私は、昼過ぎからのんびり見に来て食べ物をちょっと食べるというのが毎年のパターンだった。
今年は天気がよく、少し高台にあるキャンパスからは、遠く西の方に山々が連なって見えた。少し涼しいくらいの風が気持ちいい。
腹ごしらえを終えた私は、広場と講義棟をつなぐ階段の手すりにもたれかかって人の群れを眺めていた。広場より少し高いここからは知り合いが通るのが分かったりしてけっこう面白い。
そのとき、広場の中央に見覚えのある顔を見つけた。ボブカットの髪にもこっとした上着。山野さんだ。私は咄嗟に身体を横に向けて、顔と目だけで彼女を追いかけた。
一人のようだ。好美に会いに来たのだろうか。そんなことを考えながらも、いつ人の群れの中からあのときの男性が現れるかと思うと、大きな手で心臓を軽く握られているような気分だった。
やがて彼女は広場を通り過ぎ、建物の陰に入って見えなくなった。追いかけていって挨拶をする気にはなれなかった。好美に伝えてみろと言われ、私もそうしたいと思っていたけど、これは到底無理かもしれない。気持ちを伝えるどころか、いまは普通の会話をすることさえできないような気がした。
そのとき、
「何見てるの?」
突然背後から声をかけられ、私は声にならない息を吐き出して飛び上がった。
慌てて後ろを振り向くと、アイスクリームのカップを持った好美が立っていた。
「び、びっくりした……!」
「ごめん、普通に声かけたつもりだったけど」
胸に手を当てた私を見て、好美は眉をひそめて笑った。
「山野さんと一緒じゃないの?」
見ると好美も一人のようだった。慶子さんと言った、もう1一人の友達もいないみたいだ。
「美佳?なんで?」
好美はチョコミントのアイスをすくいながら、また眉間に皺を寄せて見せた。
「や、いま見かけたから」
そのへんで、と広場のほうを指で示す。
「美佳を?来ないようなこと言ってたんだけどな」
もしかして、と私は思った。あの彼氏と一緒に来るつもりで、好美たちには話していないのだろうか。
「山野さんて、彼氏とかいるのかな」
なるべく平然を装って聞いてみた。それでも声が変に震えたけど、好美は気にもしない風であっさり答えた。
「いや、いないっしょ」
待って、なんでそんなに当然のように……。
山野さんなら彼氏の一人や二人、いて当然のような気がするけど……。
「だって、いたら合コン来ないでしょ普通」
そうか。そう言われてみればそうだ。いや、行く人もいるかもしれないけど、山野さんはそういう感じには見えなかった。
「あのときの誰かと付き合ってるとか……」
言いながら、それも違うだろうなと思った。コンビニで見かけたときは、もっと長年付き合っているカップルという感じに見えたから。
「それもないと思う。あの子、基本的に自分のこと隠さないからさ」
そういえば、休みは家でごろごろしていると言っていたのを思い出す。あの発言のインパクトは当分忘れられそうになかった。
「いままでの全部が演技だったとかじゃない限り、いまは相手はいないはずだよ」
じゃああのときの相手は誰だったんだろう。それを聞きたかったけど、聞くと私の悩みの相手が山野さんだということがばれてしまう。
そんな私の思考を切り裂いて、ピロピロピーという電子音が響いた。好美は携帯を開いて見ると、教授に呼び出されたと言って去っていった。
私はまた広場に視線を戻す。携帯を取り出して開いてみたけど、いつも通りの待ち受け画面が表示されているだけだった。学科の掲示板を見て帰ろう。そう思って歩き始めると、また後ろから名前を呼ばれた。
「中原さん」
あれ、この声……っ?
振り向くと、さっき見かけた服装の山野さんが立っていた。見間違いじゃなかったようだ。咄嗟にその周り1,2メートルほどの範囲を見回してしまう。ぱっと見た限り、同行者と思われる人はいない。
「あ、…久しぶり」
良かった、第一声を出してみて思った。話すだけならなんとかなりそうだ。
「うん、久しぶり。最近忙しいの?」
山野さんは立っている場所を少し手すりの方に移してから言った。
「うん、普段はそうでもないんだけどゼミがね。あ、さっきまで好美もいたんだけど……」
以前だったら二人きりの状況を喜べただろうけれど、いまは違う。これでもし、ひょっこり男が現れて……紹介でもされたら、私は人としてちゃんとした対応ができる自信がなかった。
「あ、ううん。中原さんと話したかったんだけど……」
「え?」
けれど、とりあえずそんな心配はなさそうだった。落ち着いた場所で話ができるなら、告白ができるかどうかは別として、もう一度山野さんという人間をよく知りたい。そう思った。
「忙しい?」
私が少し黙ったのをそう思ったらしく、遠慮がちに聞いてきた。
「ううん大丈夫、することないし帰ろうと思ってたとこだから」
私は彼女を連れて学食へ行った。なぜか毎年、大学祭中も営業していて、当たり前だけど客は少ない。たまに教授なのかOBなのかという感じのおじさん方が話しこんでいたりして、人と話をするにはちょうどいい場所だった。
私と山野さんはプラスチックの湯飲みにお茶を汲んで、窓際の席に座った。
「いいね、ここ」
お祭り真っ最中の広場を窓から見て、山野さんは笑った。
「でしょ。大学際のときはお気に入りなんだ」
建物の3階にあるため、外のざわめきもうるさすぎず、ちょうどいい大きさになってくれていた。
山野さんはしばらく外を眺めていたが、視線をテーブルに戻し、湯飲みを両手で包むように持った。
「もうすぐ冬だね」
確かに、ついこの間まで暖かかったはずなのに、ここ1か月ほどで一気に寒くなってきた。
もっと言うならば、ついこの間、大学に入ったような気さえするのに、もう3年の冬……。いつからこんなに時間の流れるのが速くなったんだろう。
「うん。早いね」
山野さんはほんとだよね、と言って笑ったあと、少し考えるような間を置いてから言った。
「合コンのときの人と会ったりしてる?」
これはまた予想外の質問だった。無いと思って安心していた彼氏の話題がまた近づいてきたような気がして、思わず身体を引いた。
「ううん、……私は全然」
「そっか」
でも、これはチャンスかもしれない。この流れなら自然に山野さんの相手のことが聞ける。
「……山野さんは?」
ごくりと唾を飲む、というのはまさにこういう状況だろう。実際にはそんな間はなかったけれど。
「私は全然。というか……」
言いかけて、言葉を見失ったように口を閉じてしまった。だけど、その最後の言葉が気になった。それが意味するところはやっぱり……
「もしかして、最初から恋人いたりする?」
「え?」
私の言葉を聞いた山野さんは、見たことがないくらいに目を大きく見開いて、ぱちぱちと音がしそうなほどはっきりと瞬きをした。
「いないよ、なんで?」
少し首を傾けてそう答える。嘘をついているようには見えない。好美も言ってたけど、この子はあんまり隠し事はないように見えた。
「いや、山野さん可愛いし……いるのかなと思って……」
それに比べて私は……。
隠し事ばっかりだ。好美には山野さんのことを隠し、山野さんにはコンビニで見かけたことを隠してる。
もちろん、いま言った言葉も本心だったけど、やはり罪悪感みたいなものはあった。
「あはは、いないよ。残念ながら」
私は残念じゃなかったけど、もちろんそんなことは言えない。だけど、それならコンビニで見かけた男性は誰だったんだろう。なんとなく、友達という雰囲気には見えなかったけど、外は暗かったのだ。なんとも分からなかった。
「あの、ごめん、悪気はなかったんだけど」
私がそう言って言葉を切ると、山野さんは少し身構えたような表情になった。
「この間コンビニの前通ったら、たまたま男の人と一緒にいるのが見えて……」
こんなこと言ってどうするんだろう。本人がいないといっている以上、少なくとも私にはいないと思ってほしいということだ。それをこういう聞き方でほじくるのは本当に嫌だった。ほかの人になら絶対しないだろう。
「私が?」
私がうんと頷くと、しかし山野さんはちょっと微笑んでこう言った。
「それ、お兄ちゃん」
「えッ!?」
思わずテーブルに手を着いて立ち上がってしまった。向こうにいるおじさんの一人がちょっとこっちを見た。
慌てて座りなおすと、山野さんはおかしそうに笑っていた。
でも、そんな、本当に……?
「合コンで男の子とアドレス交換したでしょ?」
話の移り変わりについていけない。
「え?したけど……」
「それ、名前見なかった?」
山野さんが言うことがよく分からず、とりあえず携帯を取り出して開く。番号順に並んだ最後の4人が合コンのときの男性陣だ。田中幸一……寺田孝志……山野真一……吉田……って、え?
山野……?
「山野真一……って」
携帯の画面から山野さんの顔に目を移す。
「それそれ。幹事やってた奴だよ」
えええええ!?
ほ、本当なんだろうか。確かに苗字は同じだけど……。
「ほ、ほんとに……?」
だとしたら、私はあまりに間抜けな勘違いをしていたことになる。
「うん。お兄ちゃんの友達と私の友達でやった合コンだから」
そう言いながら、抑えても漏れてきてしまっているという感じで山野さんは笑っていた。その笑い方で、どうやらこれが本当らしいことを知ったのだった。
***
「待って待って、なんて言った?」
同じ頃、ゼミで使われている研究室に好美と慶子が座っていた。研究室といってもゼミ生の自習室的な使われ方もしており、誰もいなければこうして部外者が入って雑談していても咎められることはない。
「だから、合コンのときの中原さん」
普段はポーカーフェイスの慶子も、少し興奮したように落ち着かない様子だった。
「がなんだって?」
好美にいたっては、机から落ちて中身が散乱した鞄を直そうともしないで慶子の話に食いついている。
「だから。美佳が中原さんのこと好きなんだって」
まったく同じ説明を繰り返しさせられて、少しイラついたように話す慶子。
「ウッソー!? 同性が好きってこと!?」
それにいちいち大げさに反応する好美。
「そうでしょ」
それとは対照的に、努めて冷静を装おうとする慶子。
「だってそれじゃさ、今まではどうしてたの?」
受け入れがたいところがあるのか、そう言って事実を否定しようとする。
「今までって?」
慶子の方が美佳のことについて詳しいのか、好美は知っている人に何かを尋ねるような口調で聞いた。
「だって合コンとか来てたし、彼氏もいたわけでしょ?」
口を尖らせて言う。
「合コンは女の子目的だったんじゃないかな、たぶんだけど」
「早知子みたいなってこと?」
好美はそう言って、少し残っていたペットボトルの紅茶を飲み干した。慶子がそれに同意を示すように頷く。
「でも、初めてみたいよ」
慶子はそう言うと、立ち上がって窓のそばへ歩いていった。
「何が?女の子相手がってこと?」
椅子に座ったままの好美が身体をひねってそちらを見る。
「たぶん。はっきり言ってなかったけど……」
慶子は窓ガラスに手を触れて、下に見える広場の方に顔を傾けた。
個人が特定できないくらいに小さく見える人の群れに向かって、慶子は小さくつぶやいた。
「頑張れ、美佳」
***
ホームの時計の表示は19:02となっていた。
「なんでもう…っ」
結局最後まで、私は遅刻してばかりだった。
あのあと、食堂を通りかかったゼミの教授に呼ばれてしまった。山野さんは気を使ってかもう帰ると言い出したけど、私はまだ話したいことがあった。そう、いちばん大事な話をまだしていなかったのだから。
先日好美と3人で待ち合わせをした場所に、山野さんは立っていた。昼間と同じ格好だったけど、冷えるからか、足元はスニーカーからブーツに変わっていた。
「ごめん、お待たせ…っ」
慌てて駆け寄ると、山野さんは笑って首を振った。
「私も今来たとこ」
夜ご飯を食べようと約束したが、正直なところ、話をするのがメインで食事はどこでも良かった。立ち話にならなければそれでいいくらいの考えだった。
この間のファミレスでも良かったけど、時間が時間だし混んでいるかもしれない。あまり賑やかなのも避けたかった。結局、お兄さんが客引きをしていた個室っぽい居酒屋にすることにして、2人用の席に通された。
「あ、どーも」
店員が持ってきたおしぼりを受け取ったときの山野さんの口調が、お釣りを渡すときのものに似ていて思わず笑ってしまう。
「ん?」
手を拭きながら、不思議そうな顔でこっちを見る。あまりお釣の時のことを言うと嫌がられそうなのでやめておき、ううんと首を振ってメニューを渡した。
そう言えば、山野さんはお酒飲む人なんだろうか。合コンの時はそのへんは全然見てなかったけど。
「んー、1杯だけ飲もうかな」
良かった。それくらいならちょうどいい。私たちは1杯ずつお酒を頼み、料理を適当にいくつか頼んだ。
通路を隔てた席に座るカップルを見て、これからしようとする話を意識してしまう。どうやって言えばいいんだろう。異性に告白したことはないけれど、たぶんそれより難しい。
そう考えていると、ふと、山野さんが話題を変えた。
「お兄ちゃんがさ……」
「ん?」
山野さんにしては珍しく、言うべきか迷っているような感じだった。
「中原さんのこと可愛いって言ってさ……」
あ……。
そう言えば確か、合コンの後で一度メールをもらった。もっともそのときはどの男性だか分からなかったんだから、我ながら失礼な話だ。
「たぶんメール来たでしょ?」
「あ、うん。……でも」
お兄さんのこととなると、なんだか急に申し訳ないような気がしてくる。だけど正直なところ、今の私は山野さんのことしか考えられなかった。
「いいのいいの、気にしないで」
もしかして、昼間言っていた話というのはそれのことだったんだろうか。私が断ったことは知ってるのかもしれない。一緒に合コンを開くくらい仲のいい兄妹なら、それくらいの情報交換はするだろう。
「だから私――」
山野さんの言葉を切って、店員が飲み物を持ってきた。続けて、そばに置いてあったらしい料理をテーブルに乗せていった。
とりあえず乾杯して一口飲んで、山野さんの言葉の続きを待った。けれどグラスを持ったまま、彼女は口を開こうとしない。
「だから、なんだった?」
「ん、うん……」
いったんこっちを向いて笑いかけたものの、そのままグラスの中を見つめるように顔を落としてしまう。
「だから私ね……」
「うん」
私がゆっくり相槌を打つと、山野さんはまた少し黙って、目の横の辺りでしきりに髪を撫で付けた。
「言いづらくなっちゃった……」
落ちつかなそうにテーブルの上に視線を走らせたかと思うと、そう言って頭を抱え込んでしまった。くせっ毛の先がお通しの皿に入っていたけど、いまはそんなことどうでもいい気がした。
私はその傾けられた頭に伸ばしかけた手をぎゅっと握る。
「ね、ごめん、言いにくいことなら無理しなくていいよ」
そう言うと、山野さんはそのままの位置で頭を振った。そっとお通しの皿をテーブルの中央に引くと、はっとしたように顔を上げた。
「ご、ごめん……」
山野さんはそう言って他の皿を少し中央に寄せると、淡いオレンジ色のお酒を一口含んだ。私もそれに倣ってグラスに口を付ける。
「ふー……」
そうして小さく素早くため息をつくと、気を取り直したように私を見た。
「ごめん、もっとさらっと言うつもりだったんだけど」
その顔が恥ずかしそうに笑う。
「ううん、言いやすいように言って?」
私が促すと、山野さんは一瞬黙ったあとで吐き出すように口にした。
「中原さんはダメだよって言ったんだ私」
それって……どういう意味……?
「……なんで?」
山野さんはグラスを離して両手を握ると、
「ごめんね、こんなめんどくさいこと言って……」
と下を向いて言ってから、私の顔を見た。真っ黒い瞳に、オレンジ色の照明が反射してきれいだった。
でも、まさか……。
「……」
しばらくの沈黙のあとで、山野さんははっきりこう言った。
「私の方が好きだから。……中原さんのこと」
***
窓の外は雪が降っていた。
「わあ」
カーテンを開けた美佳が歓声を上げる。
「積もってる?」
カーテンの内側に入って横に並ぶと、外は真っ白だった。12月のうちに、都会でこれだけ積もるのは珍しい。
「すごいね、明日電車大丈夫かな」
美佳は窓ガラスをキュッキュッと擦って外を覗く。洗ったあとの前髪が窓ガラスに押し付けられてもお構いなしだ。
「止まってるかもね、明日休みでしょ?」
コンビニのあるターミナル駅までは歩いても行ける距離だけど、この雪が残っている中では大変だろう。
「うん」
「ゆっくりめに帰ればいいよ」
私がそう言って窓辺を離れると、美佳も窓からおでこを離してカーテンを閉めた。
美佳と付き合い始めて1か月半ほど経っていた。大学が違うから平日に会うことは少なく、私がゼミの帰りにコンビニで顔を合わせるくらい。
休みの日は家でごろごろしていると言っていた美佳が、
『早知子の家でごろごろしたい』
とか言うものだから、ここ3週間ほどは土曜の昼間にデートをし、そのまま私の部屋に泊まりにくるのがひとつのパターンになっていた。
美佳がバイトだと翌朝8時頃までに出ないといけないので、けっこうな慌ただしさだった。2人でいるとつい夜更かししてしまい、布団から出てこない美佳をたたき起こすのも結構大変だったりする。
顔の露出面積が少ない髪形とは言え、当然のようにノーメイクでバイトに出かける度胸に改めてびっくりさせられたりもした。
まあ、そんなわけで明日は久しぶりに、というより美佳が泊まりに来るようになって初めての、のんびりできる日曜日というわけなのだった。
「……寝る?」
「えっ」
私が聞くと、美佳は一瞬固まった。
「まだ早い?」
「あ、いや……っ」
慌てて頭を振ると、蛍光灯からぶら下がったひもにぶつかってまたびっくりしている。
時計を見ると0時過ぎ。この時間はおもしろいテレビもやっていないので、ゲームでもするか、布団の中でおしゃべりしていることが多かった。
だから美佳が驚いたのは、そういう部分ではないはずだった。
つまり……あれだ。
……私達がそういう関係になるとしたら、今日はちょうどいい状況のはずなのだ。
明日は休みで、今夜は一緒に寝る。お互い口には出さなかったけど、そのことを意識しているであろうことは、なんとなく伝わってしまっていたと思う。
「美佳」
「は、はいっ」
沈黙が続いたせいで余計にそれを意識したのか、美佳は変に上擦った声で返事をした。それがおかしくて、思わず笑ってしまう。
「もう。……おいで」
美佳の手首をそっと掴む。力は入れていないけど、彼女の身体は1歩分私に近づいてきた。平べったい上半身を抱きしめると、遠慮がちに私の背中に手を回してきた。
「早知子……胸あるね」
そう言って胸元を覗き込む。
「バカ……」
私は美佳の頬っぺたのところで髪の毛を押さえ、その薄く開いた口を塞ぐように、自分の唇をを重ね合わせた。
それは見た目から想像していたよりもずっと柔らかくて、不思議な安心感があった。
電気を消すと、カーテンの隙間から見える外が明るい。
その明るさが、ベッドに横たわる美佳の体を照らし出す。私よりも小柄だけれど、私よりも女の子っぽい柔らかなライン。
「きれい」
自然と言葉が漏れる。美佳は恥ずかしそうに横を向き、自分の髪の毛の中に鼻先を突っ込んでいる。
私が片手で胸に触れると、その体がびっくりしたように震えた。
「ま、待って…」
そう言って私の手を掴む。
「やっぱり私が先……にっ」
先っぽの部分を指でつまむと、その言葉が震える声と混じる。
美佳の手をどけて、両手で突起を転がしてみる。
「も、早知子……」
まだ私の腕に手を添えたまま、私の顔と自分の胸を交互に見ていた。中指の背と腹で交互に引っ掛けると、先端部分はすぐに固さを増してきた。ここまでは生理的な反射らしいから、気持ちいいとかとは別だろう。
だけど、
「もぉ……ん」
固い方が気持ちいいのは間違いない。私だって女だから、それは分かっていた。
私は指先で転がす動作をただ繰り返す。これで目いっぱいだろうな、と思う固さと大きさになるのに、5分くらいしかかからなかった。
「ん……ぁ……」
固くなった乳首をさらに転がし続ける。美佳の呼吸がほんの少しずつ乱れていって、やがて口が薄く開かれた。
ここまでくれば……少しは気持ちいいのかも……。
「んは……っ」
いつも聞いているのとは違う、高いかすれ声が漏れてくる。
「さちこ……ぉ」
一瞬、体がピクンと跳ねたような気がした。その高い声で名前を呼ばれ、黒い瞳が私を見つめる。
ああ、これ、私も結構……。
ふと見ると、美佳の頬を涙が伝っている。
「ごめ、痛い……?」
私が聞いても、首を横に振るだけだった。
私は乳首を転がしたまま、少し突き出されるように開いた口にキスをする。まるで表面張力が働いたみたいに、美佳の口がくっついてくる。
遠慮がちに舌を入れ、丸まっていた美佳の舌先に触れる。
「……っ」
舌先同士が触れた瞬間、美佳の体がぴくりと震えた。それは一度ではなく、舌先が上手く擦れ合う度に、美佳はお腹を震わせる。
「んぱ……っ」
「あ…ぁ…っ」
口を離して、片方の手を下へずらしていく。
「ぁ……だめ」
美佳の体液に濡れた指先で尖った部分を擦ると、一際大きくお腹を縮こまらせた。
そのままそっと指を挿し入れる。どこを触れば気持ちいいのかなんて、正直分からない。
「美佳……どのへん……?」
お腹側を控えめに擦りながら聞いてみる。美佳は黙ったまま、頭をぶんぶんと振った。 ちょっと品のない質問だったかもしれない。逆の立場で考えれば、たとえ気持ちいい場所が分かっていたって、そんなこと言えっこない。
だけど、ちょうど指がギリギリ届くところを触ったとき、
「はひっ」
空気を吐き出すような声を出して、また体を跳ねさせた。
「あ、早知子っ……さちこっ」
美佳は目を閉じて私の名前を呼ぶ。
私はそこをゆっくり擦りながら、もう一度美佳に口付けをした。
「……ん……っ!」
そして舌先が触れて擦れ合ったとき、美佳はしばらく体を震わせてからぐったりと動かなくなった。
***
ベッドから降りてカーテンを開けた私は目を見張った。
前の家の屋根に積もった雪は20センチくらい。都会では数年に一度の大雪になったらしい。
空は晴れていて、軒先から水が滴っていた。道路の方から、雪かきをしている音が聞こえてくる。
「おはよ……」
声がして振り返ると、起き上がった美佳がベッドの上に座っていた。いつも私が起こすまで寝てるのに。
ちょっと感心したけれど、よく考えればもう9時。普段の日曜日ならバイトが始まる時間のはずだった。
「よく寝た?」
ボブカットが爆発している頭を撫でると、返事ともうなり声とも分からない声を出した。
「へへ」
「な、なに?」
わざと意味ありげに笑うと、さすがに気になるのか首を回して私を見た。
「可愛かったよ、昨夜は」
そう言うと、美佳は恥ずかしいような怒ったような顔になる。
「あとで同じこと言ってあげるからね……」
自分だけ抱かれて寝てしまったことが悔しいらしく、今日は昼間から2回戦をするつもりらしかった。
「それはいいけど。どうかな」
「なにが……?」
私がちょっと苦笑いすると、美佳は首を傾けた。
「いや、自分のああいうところ想像してもあんまり可愛いとは思えないしさ」
「……」
軽い気持ちでそう言ったのだが、美佳はじっと私を見つめてからこう言った。
「早知子、前にも自分は女っぽくないって言ってたけど」
「え、うん」
「……じゃあなんで、私が早知子のこと好きになったと思うの?」
それは分からなかった。
美佳の口から聞いたことはないし……。
「私にとって、早知子は男の子の代わりじゃないんだよ」
それは……実は少し思っていたことだった。
身長差や私の格好や、コンビニで助けてもらったと言っていたことなど、どちらかというと私が男役なのだろうと。
「威張って言うことじゃないけど……」
「ん?」
美佳は少し恥ずかしそうな顔をして下を向くと、言葉を続けた。
「私は……女の子じゃないと好きになれないのね」
「あ、……そうなんだ」
想像と違っていた。
私は普通に、男性とも付き合ってきたものとばかり思っていた。
美佳が顔を上げる。
「そうだよ。だから……」
また少しの間が空いた。私は黙って続きを待った。
「だから私が好きなのは、男っぽい女の子じゃなくて……」
黒い瞳が、私の目を見てはまた逸らされる。それが2度ほど繰り返されたあとで、縫い留めるような視線が私の瞳を貫いた。
「女っぽい女の子なの。……それが早知子なの!」
美佳は一気にそう言うと、もう、と言ってベッドに倒れこんだ。
「ちょ、美佳っ。また寝ちゃダメだよ」
そう言いながらも、私は内心ドキドキが止まらなかった。そう、たぶん告白されたときと同じくらいに。
好美も言ってくれていた。信じていないわけではなかった。だけどやっぱり、好きな相手から言われると、全然違って聞こえた。
私が寝巻きの裾を引っ張って起こそうとすると、美佳は布団に抱きついて抵抗する。そんなところも可愛くて、思わず笑って力が抜けてしまう。
「美佳ぁーっ」
「知らないもう寝るーっ」
私は美佳の、少しだけ見えている耳の先に口をつけてから言った。
「ありがと」
アパートの裏を電車が通り過ぎていく音がした。これだけ雪が降ったのに、ちゃんと動いているらしい。鉄道会社の人が頑張ったのかもしれない。この電車に乗って、今日もたくさんの人が仕事に行くんだろう。
世の中の皆さんごめんなさい。今日だけは、もう少しだけダラダラさせて……。美佳と一緒に。
明日からまた、精一杯の自分で頑張るために。
戻る